細谷松太(読み)ほそやまつた

改訂新版 世界大百科事典 「細谷松太」の意味・わかりやすい解説

細谷松太 (ほそやまつた)
生没年:1900-90(明治33-平成2)

労働運動家。山形県生れ。15歳で上京して職を転々とするが,1921年日本海員組合加入,初めて労働組合にふれ合う。24年総同盟(日本労働総同盟)に参加,以来労働運動一筋に歩む。28年共産党入党,29-36年,41-44年の2回にわたる逮捕投獄で約10年間獄中生活。戦後46年産別会議を組織し事務局次長として主導役割を担うが,47年二・一スト後,党の組合介入に反対し共産党を脱党した。48年産別民主化同盟を組織し組合民主化の運動を主導(民同運動),戦後労働運動に一大転機をつくる。49年新産別を結成し,事実上の最高指導者となる。一貫して戦闘的労働組合主義組合民主主義の徹底の立場をとった。《日本労働運動史》など著書多数。
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20世紀日本人名事典 「細谷松太」の解説

細谷 松太
ホソヤ マツタ

大正・昭和期の労働運動家 元・新産別中央執行委員



生年
明治33(1900)年5月31日

没年
平成2(1990)年8月13日

出生地
山形県西村山郡谷地町

学歴〔年〕
谷地小学校卒

経歴
大正2年上京、10年見習い水夫となり、日本海員組合に加入。12年暮に下船し、東京ゴム会社に就職。13年南部合同労働組合を結成して執行委員、14年日本労働総同盟関東合同労働組合主事。昭和2年組合同盟中央執行委員。3年共産党に入党、全協書記長などを務め、再三検挙された。戦後は24年新産別を結成し、中央執行委員となり、国際部長、政治部長を務め、44年顧問に退く。「日本労働運動史」「戦後労働運動の歴史と人物」など著書は数多い。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「細谷松太」の解説

細谷松太 ほそや-まつた

1900-1990 大正-昭和時代の労働運動家。
明治33年5月31日生まれ。大正10年日本海員組合に,13年日本労働総同盟に参加。日本共産党に入党し出入獄をくりかえす。戦後産別会議事務局次長となるが,党と対立し,脱党して昭和24年新産別(全国産業別労働組合連合)を結成した。平成2年8月13日死去。90歳。山形県出身。著作に「日本労働運動史」など。

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367日誕生日大事典 「細谷松太」の解説

細谷 松太 (ほそや まつた)

生年月日:1900年5月31日
大正時代;昭和時代の労働運動家。新産別中央執行委員
1990年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の細谷松太の言及

【民同運動】より

…このような状況下で1945年から46年にかけて生産管理闘争・十月闘争と労働攻勢が展開され,さらに47年空前絶後ともいうべき二・一スト態勢へと盛り上がった。しかし二・一ストは占領軍の中止命令によって挫折したことから,それまでの強引な共産党指導に対する産別会議内部の自己批判の声が高まり,そのための臨時大会が開催されたが,この大会は逆に自己批判を封ずる結果となり,それまでにも生じていた共産党フラクション活動に対する内部の不満が噴出し,産別会議前事務局次長の細谷松太らを中心に〈組合を組合員の手に〉をスローガンに48年2月産別民主化同盟(民同派と呼ばれる)が結成された。その前後には総同盟の民主化運動の提唱,国鉄反共連盟結成などもあり,産別民同の結成は戦後労働運動再編成を決定的にした。…

※「細谷松太」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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