水口城跡(読み)みなくちじようあと

日本歴史地名大系 「水口城跡」の解説

水口城跡
みなくちじようあと

[現在地名]水口町東林口・中邸・本丸・城内・城東・梅が丘

江戸時代の水口美濃部みなくちみのべ村の西半に、将軍家御茶屋として寛永一一年(一六三四)に築かれた。天和二年(一六八二)水口藩の成立とともにその居城となり幕末に至った。県指定史跡。慶長六年(一六〇一)東海道宿駅に指定されてのち、当地は将軍家通行の際にしばしば宿泊地となった。徳川家康水口宿内の大徳だいとく寺を宿所とし、元和六年(一六二〇)徳川秀忠の娘和子(東福門院)が入内するに際しては宿の南側に御茶屋御殿を建て、仮宿所としている。寛永一一年の徳川家光の上洛に備え、新たに御茶屋を築きその宿館とすることとなり、同一〇年小堀遠州と島光安が作事奉行に命じられている(徳川実紀)

普請は寛永一〇年より一一年に分けて行われ、同一一年上洛帰途の家光が宿泊している(徳川実紀)。工事には延べ一〇万人の大工が投入されたという(中井文書)。東海道の南に位置し、南を野洲やす川が西流する微高地に築かれ、本丸と二の丸の二郭からなる。本丸内部には将軍宿館として殿舎が、二の丸には賄所が設けられた。本丸は方形(東西七五間・南北七九間)の東側に出丸(東西二〇間・南北二〇間)と称される突出部分があり、周囲は石垣を築き水堀で囲まれていた。四隅には矢倉を建て土塀と門でつないだ。本丸殿舎は質的に表向と奥向に分けられ、とくに御座之間に接して建てられた御亭は二階建の望楼風の建築で、その屋根は木賊葺であった。構成は二条城の施設に通じ、その規模を小さくしたものといわれる。築城に際し東海道を北に迂回させ、また町屋を移動した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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