朝日日本歴史人物事典 「水野忠徳」の解説
水野忠徳
生年:文化12(1815)
幕末の幕府官僚。天保9(1838)年昌平黌学問吟味に乙科及第,阿部正弘の人材登用政策のもと,西ノ丸目付を経て浦賀奉行,長崎奉行。安政1(1854)年勘定奉行へと進み,田安家家老を経て同5年外国奉行。将軍継嗣問題では一橋慶喜の擁立を望んだが,安政の大獄では処罰を免れる。翌年ロシア士官殺害事件の責任を追及され,西ノ丸留守居に左遷。文久1(1861)年外国奉行に再任,次いで小笠原島開拓御用掛を兼ね同地を視察。幕府首脳部の公武合体方針が幕府の権威を損なうとして反対,翌年箱館奉行に左遷されるが,これを拒否するように隠居した。その後も幕府の権威回復への意志は衰えず,文久3年5月,尊攘運動の抑制を計画。井上清直,向山黄村らと共に小笠原長行の率兵上洛に参加し挫折,差控に処せられた。以来,幕府の倒壊を目の当たりに見ながら日々を送り,江戸開城ののち激憤のうちに病没。
(井上勲)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報