万延元年遣米使節(読み)まんえんがんねんけんべいしせつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「万延元年遣米使節」の意味・わかりやすい解説

万延元年遣米使節
まんえんがんねんけんべいしせつ

1860年(万延1)日米修好通商条約批准書交換のためアメリカに派遣された江戸幕府最初の遣外使節。江戸幕府は安政(あんせい)5年6月19日(1858年7月29日)に調印した修好通商条約の批准書交換をワシントンで行うことを提議し、その結果、本使節の派遣となった。一行は正使新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)、副使村垣淡路守範正(のりまさ)、目付小栗豊後守(おぐりぶんごのかみ)忠順(ただまさ)、以下役人17名、従者51名、賄方(まかないかた)6名、計77名で、陽暦2月13日(和暦正月22日)、アメリカ軍艦ポーハタン号で横浜を出帆、ハワイに寄港して現地の3月29日サンフランシスコに到着した。4月7日同地を発し、パナマ地峡を横断して5月14日ワシントン着、同月17日ホワイトハウスで大統領J・ブキャナンと会見し、批准書の交換は22日に国務省で行われた。

 その後一行はボルティモアフィラデルフィア、ニューヨークなどを歴訪して盛大な歓迎を受け、6月30日、ナイアガラ号に搭乗、ニューヨーク港を出帆、大西洋、喜望峰経由でバタビア香港(ホンコン)に寄港して、11月9日(和暦9月27日)に品川沖に到着した。なお、このとき幕府は軍艦咸臨(かんりん)丸(艦長勝海舟)を使節一行の警固名目に往路サンフランシスコまで随伴させた。

 この遣使は寛永(かんえい)鎖国令発布以来、日本人が正規に国外に渡航した最初の事例で、その外交上の使命に加えて、日本人が欧米の文化を見聞し摂取する端緒を開き、文化交流とその後の日本の政治・外交の進展に大きな影響をもたらした。

[加藤榮一]

『『万延元年遣米使節史料集成』全七巻(1962~63・風間書房)』『レイモンド服部著『万延元年遣米使節の記録 77人の侍アメリカへ行く』(講談社文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「万延元年遣米使節」の意味・わかりやすい解説

万延元年遣米使節
まんえんがんねんけんべいしせつ

幕末,万延1 (1860) 年日米修好通商条約 (→安政五ヵ国条約 ) の批准書交換のため,江戸幕府がアメリカに派遣した最初の幕末遣外使節。正使に外国奉行新見 (しんみ) 正興,副使に同村垣範正,立合いに目付小栗忠順が任じられ,幕臣のほか佐賀,熊本,仙台,加賀,土佐その他諸藩の藩士をも随員に加えた 77人が,同年1月アメリカ艦『ポーハタン』号に搭乗。別に木村喜毅 (芥舟) ,勝義邦 (海舟) は中浜万次郎福沢諭吉らを加えた総勢 96人で幕府がオランダから購入した『咸臨丸』でサンフランシスコまでこれに随行,同乗のアメリカ測量船員たちの援助で日本人初の遠洋航海に成功した。使節一行はハワイを経由してワシントン D.C.で大統領 J.ブキャナンに謁見し,批准書交換をすませた。当時の日記,紀行類は『万延元年遣米使節史料集成』 (7巻) その他に収録されている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「万延元年遣米使節」の解説

万延元年遣米使節
まんえんがんねんけんべいしせつ

幕末期の最初の遣外使節で,日米修好通商条約の批准書交換のため1860年(万延元)渡米した。正使新見正興(しんみまさおき),副使村垣範正,目付小栗忠順(ただまさ)ら総員77人。そのうち14人は諸藩からの参加者。1月米軍艦ポーハタン号で出航,ハワイ,サンフランシスコをへてワシントン着。ブキャナン大統領との会見,批准書の交換のほか,各種施設を見学して海外事情を探索した。各地で大歓迎をうけ,帰路はニューヨークから喜望峰・香港を経由して9月帰着。使節団とは別に,航海実習のために幕艦咸臨丸(司令官木村芥舟(かいしゅう),艦長勝海舟)が随伴し,日本人として初の太平洋横断に成功した。

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