江尾村(読み)えびむら

日本歴史地名大系 「江尾村」の解説

江尾村
えびむら

[現在地名]江府町江尾

北流する日野川東岸に位置し、村内で同川に南西流する船谷ふねだに川が合流する。北は小江尾こえび村、南は武庫むこ村、日野川対岸は久連くれ村。江美とも記す。同川沿いを日野往来の東岸路が走る。河川の合流点付近に形成された町場は宿場としての機能を果した在郷町であった。日野往来から分岐して小江尾川沿いを遡上する道は、小柳こやなぎ別れで大山道のうちの横手よこて道に合流する。また当村から北東宮市みやいち村を経て、助沢すけさわ村から伯耆・美作国境の内海うつみ(内海峠)を越える延助のぶすけ越の道もあった。村名は河川の屈曲地点を意味する「エビ」の地名に由来すると考えられる(江府町史)。永禄七年(一五六四)と推定される八月二三日の毛利元就感状(閥閲録)に「江尾之城」、同年九月一六日の杉原盛重感状(三吉鼓文書)に「日野郡江尾要害」とみえ、戦国期の江尾城の城下に町場の形成がみられたという。藩政期の郷帳類などには江尾村とみえるが、正保国絵図には江尾宿とある。拝領高は三一九石余、本免は五ツ八分。元禄郷帳による高四二九石余。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四九三石余、竈数一一六。「伯耆志」では林五一町五反余、家数一四七・人数五二七、産物菅笠。明治維新時には婦女子のほとんどが菅笠作に従事していたというが、明治四〇年代に衰微


江尾村
えのおむら

[現在地名]富士市江尾・江尾南えのおみなみ

増川ますがわ村の東に位置し、南は浮島うきしま沼に臨む。根方ねがた街道が東西に走る。永禄一二年(一五六九)と推定される七月四日付北条氏尭朱印状(多門坊文書)によれば、氏尭が須津すど八幡神社の多門たもん坊や村山むらやま浅間神社(現富士宮市)大鏡だいきよう坊、「須津小屋中」などに「小麦石之小屋」の管理を命じている。この頃武田氏の駿河侵攻によって今川氏は駿河を追われ、北条氏が武田氏に対抗して駿河東部地域へ出兵して武田氏とにらみ合いを続けていた。「小麦石之小屋」「須津小屋」などは合戦の際に農民が避難したり、在地の地侍などが籠ったと思われる。この「小麦石」は江尾の字小麦石こむぎいし付近に比定される。


江尾村
えのおむら

[現在地名]桜江町江尾

市山いちやま村の東、日和ひわ川と糸谷いとたに川が合流し八戸やと川右岸に注ぐ扇状地と、後背丘陵に立地。日和川中流は千丈せんじよう(県立自然公園)の渓谷美で知られる。江戸初期に市山村から分村し、正保四年(一六四七)の古田領郷帳に村名がみえる。高九三石余、免六ツ六分五朱、ほかに新開高六〇石余。宝永石見国郷村帳には市山村枝郷とみえ、高一三一石余。耕地は水害常襲地帯であったが、浜田藩の普請により八戸川に堤防・井堰を構築し、耕地の保護と拡大がなされた結果、逐次村高が増加している。延享三年(一七四六)の小物成帳(桜江町誌)によると川役銀三匁八分・鑪山役銀一一五匁五分・紙船役銀一八匁。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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