江差追分(読み)エサシオイワケ

デジタル大辞泉 「江差追分」の意味・読み・例文・類語

えさし‐おいわけ〔‐おひわけ〕【江差追分】

北海道民謡で、江差地方座敷歌信濃追分越後から船乗りなどによって伝えられ、変化したものという。松前追分

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精選版 日本国語大辞典 「江差追分」の意味・読み・例文・類語

えさし‐おいわけ‥おひわけ【江差追分】

  1. 〘 名詞 〙 北海道江差地方の民謡。江戸中期から、ニシン漁の本場として諸国船舶や出かせぎ人が江差に集まり、隆盛となるに伴い、全国に広まった。天明年間(一七八一‐九九)(一説に天保年間(一八三〇‐四四))座頭佐の一の創作とも、また信濃追分が越後(新潟県)から漁場を通ってこの地方にはいり、独特の節回しに変化したものともいわれる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「江差追分」の意味・わかりやすい解説

江差追分
えさしおいわけ

民謡の曲名。北海道江差町の人たちが酒席で歌ってきたもの。『松前追分』ともいう。その源流は、長野県軽井沢町追分に端を発する酒席の騒ぎ唄(うた)で、のちに新潟市の港町花柳界を経由して海路北海道へ持ち込まれたものであるが、これには2種類の用いられ方があった。一つは、新地とよばれる高級料亭街で、芸者衆がお座敷唄として三味線伴奏をつけて歌ったもの。もう一つは、浜小屋とよばれる下級飲食店を中心にして、「ヤン衆」や下級船員たちが「投節(なげぶし)」的に、野外などで歩きながら無伴奏で歌ったりしたもの。ところが交通の中心が鉄道に移り、ニシン漁も北の海へ移ると江差は廃れ始めた。そこで1911年(明治44)かつての江差の繁栄を示すものとして『江差追分』の保存運動がおこり、詰木石(づみきいし)町のそば屋久保田リセ宅で「研究会」が旗上げした。ところがこのころから『江差追分』は新地芸者が減ったこともあって、「浜小屋節」一色になり、伴奏楽器も三味線から尺八にかわって、今日の形に整えられ、さらに三浦為七郎の出現で、大正初めに今日の形式が完成した。

竹内 勉]

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改訂新版 世界大百科事典 「江差追分」の意味・わかりやすい解説

江差追分 (えさしおいわけ)

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世界大百科事典(旧版)内の江差追分の言及

【追分節】より

…広義では全国各地で〈追分〉の名で歌われている酒盛歌,狭義に北海道の《江差追分》をさす。元来,〈追分〉の地名は街道の分岐点で各地にある。…

【寿都[町]】より

…年間の半分近くが風速10m以上の風が吹く強風の地で,とくに5月から8月にかけて吹く南南東の風は寿都のだし風と呼ばれている。《江差追分》で,女性を〈せめて歌棄(うたすつ)磯谷(いそや)まで〉連れて行きたいと歌われた歌棄,磯谷は町内の地名であるが,この女人禁制も1856年(安政3)ころに解かれた。【奥平 忠志】。…

【馬子歌(馬子唄)】より

…現在は尺八の伴奏がつき,節まわしの美しい歌として愛好者が多い。北海道の《江差追分》(追分節)は,中山道(なかせんどう)浅間山麓の馬子歌が追分節とも呼ばれて追分宿の三味線歌となり,越後から日本海を経て江差の地に定着したといわれる。なお,馬子歌の曲節は古浄瑠璃にとり入れられており,下座音楽にも〈箱根八里〉〈伊勢は津でもつ〉などの馬子歌がある。…

※「江差追分」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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