江良町村(読み)えらまちむら

日本歴史地名大系 「江良町村」の解説

江良町村
えらまちむら

[現在地名]松前郡松前町字江良・字高野たかの・字大津おおつ・字二越ふたこえ・字白坂しらさか

近世から大正四年(一九一五)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、南方清部きよべ村、西は海に臨む。「地名考并里程記」によると地名の由来は「夷語ヱラマチなれは魂魄といふ事。亦ヱランマシユなれは美敷と申事なれとも、両様故事未詳」。シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」に「ゑら町 是迄三里 澗有此入江嵐にて船出す」とみえる。元禄郷帳には「ゑら町村」、享保十二年所附に「江良町村 松前不動川ヨリ四里廿九丁五十六間」と記される。天保郷帳も江良町村とする。

慶長(一五九六―一六一五)頃に南部・津軽の人が漂着し、魚介の豊富なことから永住し始め、越前から源八、秋田から長左衛門が渡来し漸次移住者が増加していったという(函館支庁管内町村誌)。「此沖合行程八里程隔て大嶋といふありて、多分、此所より渡海すといふ」とする説(地名考并里程記)もある。近世初期には大鴨津おおかもつ川上流に多数の砂金掘鉱夫が入ったとも伝える。元和八年(一六二二)には城下法幢ほうとう末寺の曹洞宗泉龍せんりゆう院が建立された(宝暦一一年「御巡見使応答申合書」)寛文(一六六一―七三)頃は七〇軒ほどあり(津軽一統志)、松前から上ノ国に至る間では清部村とともに大きな集落であった。延宝七年(一六七九)には八幡神社が建てられ、「福山秘府」によれば神体は円空仏であったらしい(「江良町郷土誌」は神仏分離の際焼かれたとする)。元禄元年(一六八八)には日蓮宗感応かんのう院が創建され(文化六年「村鑑下組帳」松前町蔵)、村の体裁が整ってきた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報