池之内村(読み)いけのうちむら

日本歴史地名大系 「池之内村」の解説

池之内村
いけのうちむら

[現在地名]洲本市池内いけのうち

宇原うわら村の南西、洲本川支流樋戸野ひどの川上流部にある。南東は津名つな千草ちくさ村。三原みはら郡に属する。池内村木戸池きどいけうち村とも称する。「味地草」は寛文一三年(一六七三)の古記に「池ノ内西原」とか「西原村」とあるのは当村のことであろうと記している。正保国絵図には池内村とあり、高二一八石余。天保郷帳では高五七五石余。元禄五年(一六九二)には物部組に属し(「庄屋組及庄屋名簿」岩村家文書)、近世後期には中筋組に属した(堅磐草)。反別戸数取調書では反別四二町八反余、高五七二石余、うち蔵入高四五一石余・給知高一一六石余。


池之内村
いけのうちむら

[現在地名]武蔵町池ノ内

内田うちだ村の北に位置し、東は伊予灘に面する。北は重藤しげふじ(現国東町)。池の内川が東流し下流域に水田地帯を形成。同川は海岸の砂丘に沿って北流し重綱しげつな川と合して海に注ぐ。鎌倉時代には武蔵郷池内永吉いけのうちながよし名の内(→武蔵郷。小倉藩元和人畜改帳に池内村とみえ、高三〇二石余、家数四三、うち百姓一一・山守一・寺家一、名子家・牛家三〇、人数八〇、うち百姓一一・名子五、馬一・牛一三。


池之内村
いけのうちむら

[現在地名]社町池之内

久米くめ谷の最奥部に位置し、北ははた村、南西は上久米村。中世は久米庄のうちに含まれ、池内などとも記される。文永二年(一二六五)一一月三日の住吉神領杣山四至并造替諸役差定書(大川瀬住吉神社文書)に、「シンハタ(新畑)イケノウチハ、クメ(久米)ノ一色」とみえる。池之内は摂津住吉社領久米庄のうちで、かつては新畑(現社町畑か)とともに現社町上鴨川かみかもがわ住吉神社の氏子圏であったという。文保元年(一三一七)一二月日の神主・権神主連署山寄進状(朝光寺文書)に「久米庄内朝光寺々辺山」の南境として「南池内道之横道」がみえ、この時に神主前摂津守宿禰と権神主津守宿禰が朝光ちようこう寺の寺辺の山を同寺に寄進している。


池之内村
いけのうちむら

[現在地名]相生市池之内・赤坂あかさか一―二丁目・双葉ふたば一―二丁目など

那波野なばの村の西、山裾の緩丘地に立地する。池内・池野内とも記す。永正一二年(一五一五)四月一六日の赤松則貞折紙(海老名文書)に、相生おお村の海老名太郎左衛門拘分矢野やの庄助延名の内として「池内」とみえ、湯浅左京亮に安堵されている。江戸時代の領主変遷は相生村に同じ。正保郷帳に池野内村とみえ田方一四〇石余・畠方一〇石余。貞享五年(一六八八)の那波五ヵ村明細帳(田中家文書)によれば高一六八石余・反別一四町八反余、家数三二・人数一九八、牛一三・馬一。


池之内村
いけのうちむら

[現在地名]八木町字池之内

木原きわら村の西に連なる谷にあり、村域は広いが南半分は山地である。西から南にかけてはかむり峠を越えて上口人かみくちうど(現園部町)に続き、北は木原村、東は玉井たまのい村。江戸時代には上・中・下口人村(現園部町)と同じ郷域であったともいわれる(丹波志桑船記)。あるいは口人村からの出郷であろうか。園部藩領。

村高は元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳の九二石余から天保郷帳の一四二石余に増加。


池之内村
いけのうちむら

[現在地名]小牧市池之内

大山おおやま川によって川北と川南に大別される。元亨二年(一三二二)の林・阿賀良両村名寄帳(円覚寺文書)によれば、「池内押領」とみえる。「徇行記」によれば、概高七〇七石余のうち、六九三石余が藩士二二人の給知。天保の村絵図にはこの給人の名前が記入されている。田三六町九反余、畑は七町九畝余。寛文一一年(一六七一)の家数六一、人数三四二(寛文覚書)。天保の村絵図をみると、水利は大山川と五つの雨池によっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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