日本歴史地名大系 「武蔵郷」の解説
武蔵郷
むさしごう
現武蔵町全域と国東町
安元年中(一一七五―七七)から下宮造替料所とされ(一〇月一五日「永弘重行書状案」永弘文書)、宇佐宮太大工小山田貞遠が文治年間(一一八五―九〇)に作成利用した宇佐宮仮殿地判指図(宇佐神宮蔵)によると、若宮鳥居内置路甃二丈ほか二件が豊後一国役分として割当てられている。以後この指図は国貞・為貞・貞行に相伝されており、貞行の利用年代は弘安年間(一二七八―八八)となっている。一部に加筆がみられる。年月日未詳の造宇佐宮課役注文案(到津文書)には安岐・武蔵両郷役として御服所とみえる。また禰宜所帯分の御供田・得分免田・散在田畠などを不輸神領として再認する旨の外題安堵が、元暦二年(一一八五)三月追討使源範頼から与えられており、安岐郷・武蔵郷内に禰宜免田八町があった(「大神安子等連署解状案」益永文書)。免田の存在は前掲宇佐宮神領次第案でも確認できる。宇佐宮最大の祭礼である行幸会では
当郷地頭職は守護大友頼泰らをはじめとし、建武二年(一三三五)一〇月一七日の大友貞載書下案(永弘文書)に武蔵郷御代官水永某がみえ、重藤・久吉両名は大友惣領家の当知行地となっている(貞治三年二月日「大友氏時所領所職等注進状案」・永徳三年七月一八日「大友親世所領所職等注進状案」大友文書)。
武蔵郷
むさしごう
「和名抄」所載の郷。国東郡六郷の一つ。「国造本紀」(卜部兼永本)によると成務天皇の時代、吉備都命六世の「午佐自命」が国前国造に任じられたとするが、「午佐自命」については「牟佐自命」とするものもあり(渡会延佳校本「鼈頭旧事紀」など)、牟佐自を「むさし」とよんで、当郷に関連するとする説もある。
「宇佐大鏡」によると奈良時代に八幡宮(宇佐宮)に施入された封戸(三国七郡御封)のうち、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報