池内信嘉(読み)イケノウチ ノブヨシ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「池内信嘉」の解説

池内 信嘉
イケノウチ ノブヨシ


職業
能楽功労者 能楽研究家

別名
幼名=嘉源次,号=如水,如翠

生年月日
安政5年 2月7日

出生地
伊予松山(愛媛県 松山市)

学歴
愛媛師範〔明治10年〕卒

経歴
愛媛県の小学校教師を務めた後、明治12年上京、英語、漢学を学んだ。13年群馬県の養蚕製糸業を視察して大いに感じ、松山に帰って養蚕業の普及発達に10余年間努力した。のち県会議員に選ばれた。また幼くして父・池内信夫から能楽の指導を受ける。当時の能楽の衰微を憂い35年再び上京、能楽館を設立し、雑誌「能楽」を発行、さらに能楽研究会を組織、能楽囃子方の養成に尽力。42年能楽会理事、次いで専務理事、大正元年東京音楽学校嘱託(のち教授)となった。編著に「喜多流悪魔払」「謡の謡ひ方 能の見方」「能と謡の根源」「禅竹集」「謡稽古の常道」「能の説明」「能楽盛衰記」などがある。

没年月日
昭和9年 5月17日 (1934年)

家族
弟=高浜 虚子(俳人)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「池内信嘉」の解説

池内 信嘉
イケノウチ ノブヨシ

大正期の能楽功労者,能楽研究家



生年
安政5年2月7日(1858年)

没年
昭和9(1934)年5月17日

出生地
伊予国松山(愛媛県松山市)

別名
幼名=嘉源次,号=如水,如翠

学歴〔年〕
愛媛師範〔明治10年〕卒

経歴
愛媛県の小学校教師を務めた後、明治12年上京、英語、漢学を学んだ。13年群馬県の養蚕、製糸業を視察して大いに感じ、松山に帰って養蚕業の普及発達に10余年間努力した。のち県会議員に選ばれた。また幼くして父・池内信夫から能楽の指導を受ける。当時の能楽の衰微を憂い35年再び上京、能楽館を設立し、雑誌「能楽」を発行、さらに能楽研究会を組織、能楽囃子方の養成に尽力。42年能楽会理事、次いで専務理事、大正元年東京音楽学校嘱託(のち教授)となった。編著に「喜多流悪魔拂」「謡の謡ひ方 能の見方」「能と謡の根源」「禪竹集」「謡稽古の常道」「能の説明」「能楽盛衰記」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「池内信嘉」の意味・わかりやすい解説

池内信嘉 (いけのうちのぶよし)
生没年:1858-1934(安政5-昭和9)

能楽研究家。愛媛県松山市出身。号如水,如翠。愛媛県立師範学校卒業後,教職に就く。のち養蚕事業を興し,一時,県会議員として活躍したが,1902年能楽の前途を憂え,いっさいをなげうって上京。能楽館を設立,能楽俱楽部を置いて囃子方の養成につとめる一方,雑誌《能楽》を発刊,能楽会理事に就任するなど能楽界の発展に貢献した。12年その説がいれられて東京音楽学校(現,東京芸術大学)に能楽囃子科が設置されるや同校の嘱託(のち教授)となり後進育成に力を尽くすなど能楽の振興に半生を捧げたが,能楽界の旧体質の壁も厚く苦難の連続であった。吉田東伍《世阿弥十六部集》(1909)の公刊をはじめ能楽研究にも大きく寄与した。主著《能楽盛衰記》2巻(1925-26)。俳人高浜虚子の兄。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「池内信嘉」の解説

池内信嘉 いけのうち-のぶよし

1858-1934 明治-昭和時代前期の能楽研究家。
安政5年2月7日生まれ。高浜虚子の兄。愛媛県会議員などをつとめたのち明治35年上京。能楽館を設立して「能楽」を発行,後進の育成につくした。能楽会理事,東京音楽学校(現東京芸大)教授。昭和9年5月17日死去。77歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。愛媛師範卒。著作に「能楽盛衰記」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「池内信嘉」の解説

池内 信嘉 (いけのうち のぶよし)

生年月日:1858年2月7日
大正時代の能楽研究家
1934年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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