日本大百科全書(ニッポニカ) 「池辺陽」の意味・わかりやすい解説
池辺陽
いけべきよし
(1920―1979)
建築家。韓国釜山(ふざん/プサン)生まれ。1942年(昭和17)、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。1944年に東京帝国大学大学院を修了。同年、坂倉準三の建築事務所に入所。同所内に組立建築部を設立し、技術部長を務める。1946年より東京大学第二工学部講師として建築設計計画を担当。同年、戦災復興院嘱託となり、下関・宇部復興都市計画に参加した。第二次世界大戦後の世界において、社会や都市の復興のために、住居などの建築物を効率よく安価に供給するという主題のもとで世界各地でさまざまな試みが行われた。日本にもそのような動向があり、池辺もまたそれに大きく関心を寄せた建築家の一人である。
1947年、戦後の民主化のもと、新たな建築像を模索する新日本建築家集団(NAU)の創立に参加し、機関誌『NAUM』に編集発行人としてかかわる。マルクス主義から影響を受けた池辺は、「新たな日本の建築、人民のための建築文化の確立」(『NAUM』第1号)をめざすことになる。具体的には、戦後民主主義にふさわしい住宅を確立するために、建築家個人の主観を廃した科学的・合理的な設計による住宅の工業生産化(標準化)、家事労働の軽減(婦人解放)などを追求していく。なかでも「立体最小限住居No.3」(1950)は、当時の法律で定められた15坪という面積制限のなかで、畳などの日本の伝統的な要素、スタイルを廃し「平面の機能分化を尊重し、空間の節約、断面による独立性の確保に務めた」設計により、その後の住宅設計に大きな影響を与えることとなる。
1949年には東京大学助教授となり、同年に発足した生産技術研究所において建築生産学を担当する。その後、一貫して建築の規格化・モジュール化の研究とその開発および設計に注力する。具体的には、財団法人建設工学研究会理事(1950)、モデュール研究会設立(1955)、工業標準調査会委員となりモデュール関係のJIS化に参画(1958)、ISO(国際標準化機構)日本代表(1960)、IMG(国際モデュールグループ)メンバーとなる(1960)など、精力的に活動を展開した。これらの問題意識は1961年、論文「空間の寸法体系、GM(一般的な寸法システム)モデュールの構成と適用」に集約され、同論文により工学博士号を取得。1963年、建築学会に設計方法委員会を組織し、同主査に就任。1964年より、東京大学生産技術研究所が総力を上げて取り組んだ一大プロジェクトである「KSC(東京大学鹿児島宇宙空間観測所)計画」に参加し、数多くの地上施設の設計を担当する。1965年東京大学教授。1966年には「KSC計画」に並行するかたちで、科学、工業など異なるジャンルのクリエーター間のコミュニケーションを目的とした組織DNIAS(ディナイアス)(環境と工業を結ぶ会)を創立している。KSC計画の設計活動で得られた経験は、それ以後の池辺の設計のあり方にも大きくフィードバックされた。
[堀井義博]
『池辺陽著『すまい』(1954・岩波書店)』▽『池辺陽著『デザインの鍵――人間・建築・方法』(1979・丸善)』▽『勝見勝監修『現代デザイン理論のエッセンス――歴史的展望と今日の課題』(1966・ぺりかん社)』▽『栗田勇編著『現代日本建築家全集17――池辺陽 広瀬鎌二』(1972・三一書房)』▽『彰国社編『池辺陽再発見――全仕事の足跡から』(1997・彰国社)』▽『難波和彦著『戦後モダニズム建築の極北――池辺陽試論』(1999・彰国社)』▽『「池辺陽が現代に投げかけるもの/内・外・自然:内と外と暮らす家」(『住宅建築』1999年8月号・建築資料研究社)』