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沓掛城 くつかけじょう

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日本の城がわかる事典の解説

くつかけじょう【沓掛城/沓懸城】

愛知県豊明市にあった平山城(ひらやまじろ)。桶狭間の戦いの前夜に今川義元が入城した城として知られる。緩やかな丘の上に築かれた総堀に囲まれた本丸、二の丸、諏訪曲輪(すわぐるわ)などで構成される城郭である。東西288m、南北234mの城域を有し、当時の城郭の中では規模の大きな部類に入る。1325年(正中2)に近藤宗光が築城したとも、応永年間(1394~1427年)に藤原義行によって築城されたともいわれるが、築城の経緯についてはくわしいことはわかっていない。ただし、後醍醐天皇の時代にすでにこの一帯の国人として近藤氏の名が見え、室町時代の早い時期に近藤氏が居城としたことは確かなようである。戦国時代に入り、9代目の城主の近藤景春は松平広忠(徳川家康の父)の家臣となっていた。しかし、尾張の織田信秀(織田信長の父)の勢力が強くなり、しばしば三河に出兵を繰り返すようになると、近藤氏は信秀に従った。しかし、1551年(天文20)に信秀が死去して信長が跡を継ぐと、鳴海(なるみ)城(名古屋市緑区)の山口教継・教吉父子とともに織田氏から離反して今川義元の傘下に入った。1560年(永禄3)、今川義元率いる2万5000といわれる軍勢が西上を開始し、同年5月18日に沓掛城に入った。義元はここで軍評定を開き、翌19日早朝、この城を出発した。このとき、義元は落馬し、輿に乗り換えたともいう。そして、運命の桶狭間で小勢の織田信長勢の奇襲に遭い、命を落とすことになった。このときの沓掛城主は近藤景春である。景春は桶狭間の戦いで義元が討ち取られたあと、沓掛城に戻り刈谷城を攻めるなどの反攻を行ったが、沓掛城は21日に織田勢に攻められて落城し、景春は討ち死にした。織田方の城となった沓掛城に入城したのは簗田政綱である。桶狭間の戦いで勲功一番と評価され、信長から沓掛3000貫文の領地とともに沓掛城を与えられた。1575年(天正3)、政綱は加賀(石川県)の天神山城主となったために、沓掛城には織田信照、次いで川口久助が入城し、城主となった。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで、川口久助は西軍(豊臣方)に与し、戦後捕らえられて伊達政宗(だてまさむね)の預かりとなった。このとき、沓掛城は接収された後、廃城となった。城跡は1981年(昭和56)から1986年(昭和61)にかけて豊明市による発掘調査が行われ、沓掛城址公園として整備され、現在に至っている。園内には本丸や曲輪、空堀などが良好な状態で現存し、当時の縄張りを残している。名鉄名古屋本線豊明駅または前後駅からバス、沓掛小学校下車。

出典|講談社
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