沢渡村
さわどむら
[現在地名]白馬村大字神城 沢渡
姫川盆地の南端に近く、天狗岳山麓に位置する。
沢渡の名は、天正一〇年(一五八二)九月一九日付で小笠原貞慶が沢渡九八郎盛忠に与えた安堵状(御証文集)に「沢渡之儀、其方可有相続趣、先度申出候之、弥以不可有相違候」とあるのを初見とする。
沢渡氏については「大塔物語」に、応永七年(一四〇〇)の大文字一揆に加わった仁科盛房の軍勢の一人に「沢戸五郎」とみえるのを初見とし、下って永禄一〇年(一五六七)八月七日付で仁科氏の親類被官衆の堀金盛広らが小県郡下之郷大明神にささげた連署起請文(生島足島神社文書)の中に「沢渡兵部助盛則」とあり、代々仁科氏の親類筋の有力な武将として千国氏らとともに姫川筋において活躍している。
沢渡村
さわたりむら
[現在地名]東根市泉郷
白水川上流の山間部にあり、天明八年(一七八八)の村明細帳(小山田文書)には、当村より東は奥州境山、南の野川村へ五町、西の万善寺村へ八町とある。村名は沢また沢を渡り、御所山(船形山)に登ることより名付けられたという(山形県地理名勝史蹟集成)。最上氏領から元和八年(一六二二)山形藩領、寛文八年(一六六八)下野宇都宮藩領、天和元年(一六八一)陸奥白河藩領、寛保元年(一七四一)幕府領、安政二年(一八五五)以降松前藩領。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録の高一千七七石余。
沢渡村
さわたりむら
[現在地名]可児市下恵土
船岡村の西、西流する可児川北岸にある。慶長郷帳などには江(荏)戸上下と一括される。徳野藩領。岩瀬文庫本正保郷帳では下江渡村のうち。元禄郷帳に村名がみえる。承応二年(一六五三)以後は幕府領。当村から徳野村にかけて徳野藩陣屋屋敷地があり、当村内は一二石余・反別一町三反余であった(「笠松陣屋由来并支配代官書上」遠山文書)。
沢渡村
さわたりむら
南北朝期から近世初期までみえる地名で、現在の三和町合戸・三和町中寺・三和町下市萱・三和町上市萱にあたると思われる。佐渡とも記される。文和四年(一三五五)二月一一日の佐竹義篤書状(正宗寺文書)によれば、「陸奥国中野村・同国小堤村・同国佐渡南方・同国江名村・同絹谷村」などが嫡子義香に譲られている。年未詳七月二四日の白土隆顕・雲竜斎石心連署証状(秋田藩家蔵岩城文書)に「さハたり境之事をも」とみえ、北郷殿と小川玄蕃との間で紛争があった。天正(一五七三―九二)末年から近世初期のものとみられる四通の折内式部宛の佐藤貞信・根本里行連署状(同文書)に村名がみえる。
沢渡村
さわたりむら
[現在地名]美川村沢渡
面河川の左岸にあって川を隔てて黒岩村と対し、集落は山の傾斜地に位置する。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「高九拾三石七斗八升弐合 沢渡村 野山有、川有」と記される。内訳は寛保元年(一七四一)頃の「久万山手鑑」によると田八反(一一石二斗)、畑一一町(八二石五斗八升二合)で九三パーセントが山畑である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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