治承・寿永の乱(読み)じしょう・じゅえいのらん

山川 日本史小辞典 改訂新版 「治承・寿永の乱」の解説

治承・寿永の乱
ちしょう・じゅえいのらん

源平合戦・治承の乱とも。1180~85年(治承4~文治元)源氏平氏の対立というかたちをとって展開した全国的内乱。56年(保元元)の保元の乱から89年(文治5)の奥州藤原氏の滅亡までをいうこともある。70年代後半に入ると,平氏の専権に対し,従来平氏を支持した貴族層を含めた反平氏運動が後白河上皇を中心として高まりをみせた。これに対し,79年(治承3)11月,平清盛は上皇を幽閉し,平氏の独裁体制を確立したが,かえって寺院勢力など,より広範な層の反発を招き,翌年4月,源頼政が上皇の第3子以仁王(もちひとおう)を擁して挙兵,興福寺・園城寺もこれに呼応した。この挙兵はただちに鎮圧されたが,諸国の源氏に対して発せられた平氏追討を命じる以仁王の令旨(りょうじ)をきっかけとして,内乱は全国に拡大。8月17日,伊豆に配流されていた源頼朝は,北条時政らと挙兵し,伊豆国目代山木兼隆を討ったが,つづく石橋山の戦で敗北し,三浦氏の援助によって安房にのがれた。ここで上総下総・安房の武士団の協力を得て再起した頼朝は,さらに在地の武士団を糾合,10月6日には源氏ゆかりの地である鎌倉に入って本拠とした。同月20日,富士川の戦で平氏の追討軍を退けた後は関東における支配の強化を進めた。81年(養和元)閏2月の平清盛の死,3月の墨俣川(すのまたがわ)の戦以後は,飢饉のためもあって戦乱の小康状態が続いたが,信濃で挙兵して北陸道に勢力を広めていた源義仲は,倶利伽羅(くりから)峠の戦で平氏軍を破り,83年(寿永2)7月,入京。平氏は安徳天皇を奉じて西走した。義仲は上皇と対立し,頼朝に寿永2年十月宣旨が与えられると,11月クーデタを敢行した。これに対し,頼朝は弟の義経・範頼による義仲追討軍を発し,84年(元暦元)正月,宇治川の戦で義仲を滅ぼした。さらに平氏追討の宣旨を得た頼朝は,京都回復をめざして福原に進出していた平氏軍を2月7日,一の谷の戦で破り,翌85年(文治元)2月,屋島にのがれた平氏軍を奇襲した屋島の戦によって瀬戸内海の制海権を奪取。3月には彦島に拠る平氏軍を,伊予・熊野の水軍を擁した義経が攻撃して,壇ノ浦(現,山口県下関市)の戦でついに平氏一門を滅ぼし,内乱は一応の終結を迎えた。

治承・寿永の乱
じしょう・じゅえいのらん

治承・寿永の乱(ちしょう・じゅえいのらん)

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「治承・寿永の乱」の解説

治承・寿永の乱
じしょう・じゅえいのらん

源平の争乱

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