沼津宿
ぬまづしゆく
近世東海道の宿。五十三次の江戸から数えて一二宿目にあたる。宿場は本町・上土町・三枚橋町の沼津三町にわたって展開し、東の三島宿から一里半、西の原宿へも一里半であった(宿村大概帳など)。天正四年(一五七六)二月一四日甲斐武田氏は「沼津郷」に対して伝馬掟を下し(「武田家朱印状写」駿河志料)、同七年九月には「自沼津至于駿府」までの宿中に伝馬一疋を出させている(判物証文写)。戦国時代すでに沼津(沼津郷)が宿駅として機能していたことがうかがえる。ただし文禄二年(一五九三)六月二〇日の三枚橋伝馬衆連署米穀借用状(荻生文書)に「三枚橋伝馬衆」とみえるように、戦国時代から近世初期にかけて、宿駅業務を担っていたのは三枚橋(中世の車坂宿の後身、のちの三枚橋町)であったと考えられる。沼津宿として正式に近世東海道の宿となったのは、他の多くの東海道の宿場と同様慶長六年(一六〇一)と思われ、同年一月に「沼津宿」に宛てて徳川家奉行衆連署の伝馬掟(写、駿河志料)が下されている。このときの伝馬数は、これも他の多くの東海道の宿場と同様に三六疋で、一疋につき三〇坪、計一千八〇坪が伝馬屋敷地として下され、地子免除となった。なお宿村大概帳によると宿高二千二五三石余のうち、高田村が一五〇石余、東間門村が二一一石余を負担している。これは江戸時代前期に三枚橋町から高田村が、本町から東間門村がそれぞれ分村、しかし両村はその後も従来どおり伝馬役を勤めていたことによる。
分間延絵図によると往還は東隣日吉村との境を流れる浪人川に架かる石橋を渡って宿内に入り、山王前・平町・三枚橋町と狩野川の右岸に沿って西に進んだ。狢川に架かる札辻の石橋を渡ると下町(志多町)で、次いで川廓町・上土町と経るうちに曲流する狩野川に合せるように徐々に南進に変わり、上土町の南端で西に折れて通横町に入る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の沼津宿の言及
【沼津[市]】より
…しかし,沼津はこのような領主の変遷に影響を受けながらも東海道の宿駅として成長を続けた。宿は本町,上土町,三枚橋町,城内の4区に分かれ,1688年(元禄1)の《沼津宿絵図》によれば,家数510軒(うち本陣2,脇本陣4,旅籠78,茶屋13)であった。天保年間(1830‐44)の《宿村大概帳》によると,宿内人別5346人(うち男2663,女2683),家数1234軒とあり,〈農業の外旅籠屋に旅人の休泊を請,又は食物を商ふ茶店有之,其外諸商人多し〉と書かれている。…
※「沼津宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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