日本歴史地名大系 「法勝寺跡」の解説
法勝寺跡
ほつしようじあと
京都市左京区河原
於
法勝寺
自
二条末西門
入御」とみえ、西大門が二条大路に面していたことがうかがえる。また河原(鴨川の河原)より西大門の間には「毎
河瀬
構
橋、国々勤
之」と、諸国の奉仕による橋が構えられていた(法勝寺供養記)。西境は「明月記」建仁二年(一二〇二)正月一二日条に、「法勝寺西大路押小路東」とあり、押小路に沿っていたことが判明する。寺内は方四町であった。発掘調査は昭和四七年(一九七二)に池汀跡、同五〇年に金堂跡が二次にわたって実施され、その結果池汀の東端と、金堂の規模および版築を施した地業の詳細を確認することができた。
〈京都・山城寺院神社大事典〉
〔創建〕
法勝寺は左大臣藤原師実より土地を献上された白河天皇が、承保二年造営に着手した御願寺である。もとこの地は「件所故宇治前大相国累代之別業也、左大臣伝領、被献
公家
也」とみえるように(「法勝寺金堂造営記」承保二年六月一三日新御願寺事始の条)、関白頼通が伝領した藤原家累代の別業であり、「栄花物語」にも「白河殿とて宇治殿の年頃領せさせ給ひし所に故女院もおはしましゝが」(布引の滝)、「女院のおまへには、世の中を思しめし歎きわびさせ給ひていはほの中もとめさせ給ひて白河殿にわたらせ給ひぬ」(根合)とある、頼通の白河院の所在地であった。そして一条天皇中宮で道長女の上東門院彰子もこの地に一時住していたことが知れる。
〔落慶供養〕
法勝寺の造営は承保二年六月一三日の事始めに始まり(法勝寺金堂造営記)、七月一一日には木作始め、次いで金堂・講堂の上棟が行われ(水左記)、翌三年六月には阿弥陀堂の木作始めが行われた。承暦元年(一〇七七)八月二七日には新造の仏像が金堂・講堂に移され、同年一二月一八日に落慶供養が営まれた(同書)。供養の儀式については「水左記」「法勝寺供養記」「栄花物語」などにうかがうことができるが、辰刻(午前八時頃)天皇が行幸、陽明門院・中宮・一品宮・前斎宮・前斎院をはじめ関白藤原師実・内大臣藤原信長・権大納言藤原俊家・能長・忠家らが列席し、天台座主覚尋が導師となり僧三〇〇口をもって行われ、奏楽・舞曲は薄暮におよび、「誠に人間の壮観たるといえども、仏界の荘厳を髣髴とするもの歟」(法勝寺供養記)という盛儀であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報