浅田村(読み)あさだむら

日本歴史地名大系 「浅田村」の解説

浅田村
あさだむら

[現在地名]浜松市浅田町・上浅田かみあさだ一―二丁目・南浅田みなみあさだ一―二丁目・西浅田にしあさだ一―二丁目・海老塚えびつか一丁目

海老塚村の南、馬込まごめ川右岸に位置。中世浜松庄のうち。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)に、室町院(暉子内親王)領のうちとして「遠繁朝田阿多古持明院三位入道」とある。浜松庄内と推定され、持明院三位入道が領家、遠繁が預所と考えるのが一般的である。ただし同目録案には別に阿多古あたご郷という表記もみられるので、朝田と阿多古は別と考えるならば、遠繁は朝田の領家、持明院三位入道は阿多古の領家とも解釈できる。


浅田村
あさだむら

[現在地名]津幡町浅田

津幡川中流左岸、津幡宿南方だいみね丘陵北麓に位置。もとは麻田と記し、多くのアサが植えられたことに由来するという(加賀志徴)。「越後下向日記」によれば、延徳三年(一四九一)三月一二日、冷泉為広は細川政元と同行して朝四つ時に米泉よないずみ(現金沢市)を発ち、「アサダ」を経て竹橋たけのはしで昼食をとっている。「天文日記」天文六年(一五三七)六月一九日条に「木越代官あさだ光乗」の三十日番衆としての上番がみえる。


浅田村
あさだむら

[現在地名]日進町浅田

北は天白てんぱく川を挟んで梅森うめもり村に、東は野方のかた折戸おりどの両村に隣接。南部は標高六〇メートル以下の丘陵、北部は川沿いの水田地帯。寛文一一年(一六七一)の家数二五、人数一一八(寛文覚書)。「徇行記」に、広さは東西八町・南北九町、水野代官所支配に属し、概高三九二石余、新田高一五石余、耕地は田二五町八反六畝余・畑四町二反五畝余、藩士七人の給知、一部は蔵入地となっており、「竹木茂リ村立大体ヨシ、農事ノミヲ以テ生産トス」とある。


浅田村
あさたむら

[現在地名]森田村中田なかた

南は中田村田圃を隔てて北東下相野しもあいの村、西は近野ちかの(現木造町)

享保一二年(一七二七)には木造新田に属し、山通三六ヵ村の一つで村位は下と定められた(平山日記)。元文元年(一七三六)検地帳によれば、田畑屋敷合せて九町三反九畝七歩、村高は六六・七二二石であった。うち田方は八町三反九畝七歩で六三・八九九石、上田から下々田まで設定され、上田一町三反余に対し、中田二町二反余、下田二町三反余、下々田二町四反余とあり、畑方は中・下々畑のみで、下々畑六反六畝余に中畑と屋敷地を含み合計一町歩、二・八二三石とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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