日本歴史地名大系 「浜松城下」の解説
浜松城下
はままつじようか
- 静岡県:浜松市
- 浜松城下
〔中世〕
「海道記」貞応二年(一二二三)四月一一日条に「此処ヲウチ過テ浜松ノ浦ニ来ヌ。(中略)万株松シゲクシテ風波声ヲ争フ」とあり、「波ハ浜松ニハ風ノウラウヘニ立チトマレトヤ吹シキルラン」とその景観を詠込んでいる。弘安二年(一二七九)鎌倉に下る阿仏尼は引間の宿に宿をとったが、「此所の大方の名は、浜松とぞ言ひし」と記しており(十六夜日記)、引間一帯を浜松ともよんでいた。文明一二年(一四八〇)六月、太田道灌は「浜松といふ駅」にて「浪かゝるはま松かねを枕にて幾度さめぬ夏のよの夢」と詠んだという(平安紀行)。
永禄一一年(一五六八)一二月徳川家康の侵攻により今川領国は崩壊するが、その後遠江は徳川氏と武田氏の抗争地となる。元亀元年家康が居城を浜松に移して以後、引間に代わり浜松の名が定着し、家康による領国支配の拠点として「家忠日記」をはじめとする史料に頻出する。その後浜松城はたびたび増築がなされ(家忠日記)、城下町を含めて順次規模が広大されていった。天正元年(一五七三)と推定される一一月四日の武田勝頼書状写(古文書雑集)には「徳河楯籠候為始浜松、在々所々民屋不残一宇放火」とあり、徳川・武田抗争のなかで焼かれている。同一四年一二月に家康は駿府に移るが、その間当地は名実ともに徳川領国における政治・経済の中心であった。なお天正七年には本多重次の屋敷が
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報