浜松城下(読み)はままつじようか

日本歴史地名大系 「浜松城下」の解説

浜松城下
はままつじようか

馬込まごめ川右岸に位置し、西は三方原台地に及ぶ。江戸時代、代々譜代大名が配置された城下町であると同時に東海道宿場町で、当地で本坂通も分岐、遠江国の中心地として賑わった。「和名抄」東急本に敷智ふち郡浜松郷がみえ、中世には浜松庄が成立していたが、戦国期までは一般に引間ひくまと称された。元亀元年(一五七〇)徳川家康が本城を三河岡崎城から当地に移して以降、浜松が一般的な呼称となった。

〔中世〕

「海道記」貞応二年(一二二三)四月一一日条に「此処ヲウチ過テ浜松ノ浦ニ来ヌ。(中略)万株松シゲクシテ風波声ヲ争フ」とあり、「波ハ浜松ニハ風ノウラウヘニ立チトマレトヤ吹シキルラン」とその景観を詠込んでいる。弘安二年(一二七九)鎌倉に下る阿仏尼は引間の宿に宿をとったが、「此所の大方の名は、浜松とぞ言ひし」と記しており(十六夜日記)、引間一帯を浜松ともよんでいた。文明一二年(一四八〇)六月、太田道灌は「浜松といふ駅」にて「浪かゝるはま松かねを枕にて幾度さめぬ夏のよの夢」と詠んだという(平安紀行)

永禄一一年(一五六八)一二月徳川家康の侵攻により今川領国は崩壊するが、その後遠江は徳川氏と武田氏の抗争地となる。元亀元年家康が居城を浜松に移して以後、引間に代わり浜松の名が定着し、家康による領国支配の拠点として「家忠日記」をはじめとする史料に頻出する。その後浜松城はたびたび増築がなされ(家忠日記)、城下町を含めて順次規模が広大されていった。天正元年(一五七三)と推定される一一月四日の武田勝頼書状写(古文書雑集)には「徳河楯籠候為始浜松、在々所々民屋不残一宇放火」とあり、徳川・武田抗争のなかで焼かれている。同一四年一二月に家康は駿府に移るが、その間当地は名実ともに徳川領国における政治・経済の中心であった。なお天正七年には本多重次の屋敷が作左さくざ曲輪、近藤康用の屋敷が作左曲輪の下り谷(近藤谷)、山家三方衆の屋敷が秋葉権現の社地、鴨江かもえ観音堂の北築地跡が鵜殿屋敷、下垂しもだれが松下之綱屋敷というように一定程度の武家屋敷の設定がなされていたとされる。また引間城内にあった五社大明神(現五社・諏訪神社)金山かなやま社、法雲ほううん(現日蓮宗)など社寺も移したという(「浜松御在城記」内閣文庫蔵など)

〔近世の町割と構成〕

高力忠房が藩主の寛永期(一六二四―四四)に本格的な町割が始まり、武家屋敷と町人地が区分けされ、東海道浜松宿の伝馬制整備に伴い伝馬てんま町を中心にさかな町・町・旅籠はたご町が御役町として整備されていったものとみられる(浜松宿御役町由来記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の浜松城下の言及

【浜松[市]】より

…また,当地方に広く行われている習俗として盆に行われる遠州大念仏も有名である。【塩川 亮】
[浜松城下]
 遠江国敷知(ふち)郡の城下町,宿駅。平安期の《和名抄》に,敷智郡内の郷として〈浜松(浜津)〉があり,中世では〈浜松荘〉〈浜松御厨〉などもみえるが,戦国期までは一般に引間(ひくま)としてあらわれた。…

※「浜松城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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