日本歴史地名大系 「浜崎村」の解説 浜崎村はまさきむら 佐賀県:東松浦郡浜玉町浜崎村[現在地名]浜玉町大字浜崎、渕上(ふちのうえ)字大江(おおえ)唐津湾沿いの虹の松原(にじのまつばら)東端地帯の村。玉島(たましま)川の河口が東側にあり、港を形成し、浜崎浜(はまさきはま)(浦)の集落が形成される。藩政期は浜崎浦と浜崎村に分れていたが、明治一二年(一八七九)合併、同一六年砂子(すなご)村をも加えて浜崎村となった。村内にある諏訪(すわ)神社境内の築山は横穴式の古墳。玉島川の形成した砂州地で、「松浦古事記」に唐土の浦(からとのうら)、「松浦拾風土記」に賤の里(しずのさと)とも記す。一六世紀中頃明国胡宗憲編纂の「籌海図編」にみえる「法麻撒几(はまさき)」に比定される。したがって室町期には倭寇の根拠地として明国にも知られていた。中世、この村は草野氏の支配するところとなり、よき船泊の津として賑った。 浜崎村はまさきむら 埼玉県:朝霞市浜崎村[現在地名]朝霞市浜崎・北原(きたはら)・西原(にしはら)・三原(みはら)三―四丁目・朝志(あさし)ヶ丘(おか)一丁目・宮戸(みやど)一丁目田島(たじま)村の西にある。南を黒目(くろめ)川が南東へ流れ、川沿いに水田が開ける。村名は南東の低地がかつて入江であったことに由来すると伝える(風土記稿)。文明一九年(一四八七)一月聖護院道興は当地を訪れ、「むさしのゝ末に浜さきといへる里侍り、かしこにまかりて」と記し、「武蔵野を分つゝゆけハ浜さきの里とハきけと立波もなし」と詠んでいる(廻国雑記)。現毛呂山(もろやま)町桂木(かつらぎ)観音堂所蔵の鰐口はその銘によれば福徳二年(延徳三年、一四九一)九月吉日「武州新座之郡広沢之郷浜崎之宮」である「氷河之大明神」に奉納されたものであった。 浜崎村はまさきむら 福島県:河沼郡湯川村浜崎村[現在地名]湯川村浜崎北は日橋(につぱし)川を挟んで耶麻郡塩川(しおかわ)村(現塩川町)に続き、ともに米沢街道に沿う。南西は沼上(ぬまのうえ)村、東は水谷地(みずやち)新田村。本村の東、日橋川の北に小名大館野(おおだての)新田、水谷地新田村を隔てて端村古木(ふるぎ)新田があり、日橋川より北は北方(きたかた)と称し、当村は会津盆地の北部を押える要地であるため、南北朝以前にすでにここに城館が築かれていた。観応三年(一三五二)五月二一日の真壁政代薄景教軍忠状(真壁文書)によると、常陸国真壁(まかべ)郡を本拠とする真壁氏の代官薄景教が蘆名直盛と思われる三浦若狭守に属し「会津郡所々城合戦仕了、河沼郡金河浜崎城、次蜷河庄政所楯、至同牛沢城」などを攻めている。 浜崎村はまさきむら 大分県:東国東郡国東町浜崎村[現在地名]国東町浜崎富来(とみく)浦の南に位置する。天保郷帳では富来村に含まれるが、「豊後国志」に浜前とあり、旧高旧領取調帳では浜崎村三〇五石余で、また浜崎村のうちとして寺山(てらやま)分三五五石余が記載される。寺山は当地の西手にある集落。不動院(ふどういん)に直日(なおひ)社、寺(てら)ノ後(うしろ)に貴船(きふね)社、山(やま)ノ神(かみ)に山神社が鎮座する。寺山にある臨済宗妙心寺派の吉祥(きちじよう)寺は養老二年(七一八)仁聞の開基と伝える天台宗寺院で、文殊仙(もんじゆせん)寺の外六坊の一つであったという。文和期(一三五二―五六)に改宗したとされる。一六世紀半ばの成立と思われる六郷二十八山本寺目録(太宰管内志)では流通分末山として寺号が記される。 浜崎村はまさきむら 沖縄県:沖縄島中部勝連町浜崎村[現在地名]勝連町南風原(はえばる)南風原(へーばる)村の南にある。絵図郷村帳・琉球国高究帳・「琉球国由来記」・「琉球国旧記」などにはみえないが、里積記に浜崎とあり、南風原村と併記され、田畑とも中の村位。「琉球藩雑記」にも勝連(かつちん)間切のうちとして村名がみえる。康熙一五年(一六七六)勝連間切北半が与那城(ゆなぐしく)間切として分離した際に新設されたとする説がある(南島風土記)。地頭は確認できない。これは浜崎村が夫地頭の村となっているためである(一八八〇年役俸調書)。尚王二四年(一八二七)頃には南風原村の島袋筑登之らにより浜崎・南風原両村の湿地が開かれ水田が造られた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by