清寧天皇(読み)セイネイテンノウ

デジタル大辞泉 「清寧天皇」の意味・読み・例文・類語

せいねい‐てんのう〔‐テンワウ〕【清寧天皇】

記紀で、第22代天皇雄略天皇の第3皇子。名は白髪武広国押稚日本根子しらかのたけひろくにおしわかやまとねこ

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精選版 日本国語大辞典 「清寧天皇」の意味・読み・例文・類語

せいねい‐てんのう‥テンワウ【清寧天皇】

  1. 記紀の所伝で、第二二代の天皇。雄略天皇の第三皇子。白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)。母は葛城韓媛(かずらきのからひめ)磐余(いわれ)の甕栗(みかくり)宮に遷都し、在位五年にして没したと「日本書紀」にしるされる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「清寧天皇」の意味・わかりやすい解説

清寧天皇
せいねいてんのう

生没年不詳。記紀によれば第22代の天皇。5世紀に在位。白髪武広国押稚日本根子(しらがのたけひろくにおしわかやまとねこ)天皇ともいう。雄略(ゆうりゃく)天皇の第3子。母は葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。星川皇子の乱を鎮めて即位し、磐余(いわれ)の甕栗(みかぐり)宮(奈良県桜井市付近)に都した。大伴室屋(おおとものむろや)を大連(おおむらじ)に、平群真鳥(へぐりのまとり)を大臣(おおおみ)とする。生まれながらにして白髪で、皇后も皇子もなかったので御名代(みなしろ)として白髪部(しらがべ)を定めたという。治世5年で没し、河内(かわち)坂門原(さかとのはら)陵(大阪府羽曳野(はびきの)市)に葬られる。

[志田諄一]

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朝日日本歴史人物事典 「清寧天皇」の解説

清寧天皇

生年:生没年不詳
5世紀末ごろの天皇。雄略天皇と葛城韓媛との子で,生まれながらに白髪であったことから,白髪皇子と呼ばれた。雄略天皇死後,吉備稚媛にそそのかされた異母兄弟星川皇子が反乱を起こしたが,大連大伴室屋がこれを平定し,清寧を即位させた。子がなかったことから諸国に白髪部舎人などを置いたというのは名代(天皇,皇族の生活の資を貢納する民)の起源を説明するものか。播磨国(兵庫県)に市辺押磐皇子の2子,のちの仁賢,顕宗の存在を知り,喜んで迎えたという。実在性を否定する説,実在は認めながら即位を疑問視する説,またシラカとタシラカ(手白香皇女)の親縁性から,武烈と入れ換えて仁賢の子とする説などがある。

(大平聡)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「清寧天皇」の解説

清寧天皇 せいねいてんのう

記・紀系譜による第22代天皇。在位は5世紀末ごろ。
父は雄略天皇。母は葛城韓媛(かずらきの-からひめ)。「日本書紀」によると,都は磐余(いわれ)の甕栗(みかくりの)宮。生来白髪,子はいない。雄略天皇に殺された市辺押磐(いちのべのおしはの)皇子の子,億計(おけ)(のちの仁賢天皇),弘計(おけ)(のちの顕宗天皇)を播磨(はりま)で発見し,宮中にむかえた。清寧天皇5年1月16日死去。墓所は河内坂門原陵(かわちのさかどのはらのみささぎ)(大阪府羽曳野市)。別名は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと),白髪皇子。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「清寧天皇」の意味・わかりやすい解説

清寧天皇
せいねいてんのう

第 22代に数えられる天皇。名はシラカタケヒロクニオシワカヤマトネコノミコト。雄略天皇の第3皇子で,母は葛城円大臣の娘,葛城韓媛 (かつらぎのからひめ) 。雄略天皇の没後,皇位をねらって乱を起した星川皇子やその星川を助けた吉備氏らを大伴室屋の協力で誅して即位し,大和磐余甕栗 (いわれみかくり) 宮に都した。皇后,皇子はなかったという。陵墓は大阪府羽曳野市の河内坂門原陵。

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