渋井村(読み)しぶいむら

日本歴史地名大系 「渋井村」の解説

渋井村
しぶいむら

[現在地名]小山市渋井

おもい川西岸に位置し、北は島田しまだ村、南・西は立木たつぎ村。天文五年(一五三六)と推定される一一月二七日の小山高朝伊勢役銭算用状写(佐八文書)に小山領上郷分としてみえる「しほい」は渋井のことと思われ、伊勢役銭計三貫三〇〇文を負担している。なお喜連川家料所記(喜連川文書)に榎本領として「渋江郷」がみえ、当地をさすと考えられる。同郷は永禄三年(一五六〇)までは古河公方料所であったが、小山氏によって押領された。


渋井村
しぶいむら

[現在地名]川越市渋井・福田ふくだ萱沼かいぬま

久下戸くげど村の南、荒川と新河岸川に挟まれた低地に立地。南は新河岸川を隔てて福岡村(現上福岡市)検地は慶安元年(一六四八)、以後武蔵野開発地について数回実施された(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高七三石余・畑高六三石余、野銭永一〇貫一八八文、川越藩領、ほかに蓮光れんこう寺領高七石がある。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二九九石余、反別田一六町五反余・畑三七町四反余、ほかに開発分高四六石余(反別田二町五反余・畑五町七反余)、武蔵野分高三一石余(反別畑九町一反余)。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記では高三一〇石余・外高四三石余。秋元家時代郷帳には村名がみえず、一時川越藩領を離れていたが、正徳元年(一七一一)再び川越藩領となり(「川越藩領村郷付手鏡帳」川越市立図書館蔵)、幕末に至る。


渋井村
しぶいむら

[現在地名]水戸市渋井町

那珂川の右岸にあり、北は細谷ほそや村、東は吉沼よしぬま村。嘉元四年(一三〇六)の大舎人重恒譲状写(吉田神社文書)に「重(恒)領分内 信太尻村田畠在家 浜田(ママ)郷六段 渋江五段」とあり、信太尻しだじり村に属していた。信太尻村については建長八年(一二五六)八月一七日の関東御教書写(同文書)に「常陸国吉田社田所成恒申、当国吉田郡内信太尻事、訴状遣之、不日可令参決之状、依執達如件」とみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「四百弐拾九石壱斗六升 渋井村」とある。


渋井村
しぶいむら

[現在地名]喜多方市豊川町渋井とよかわまちしぶい

荒分あらわけ村の東にあり、南は第六天だいろくてん(現塩川町)、北は菅井すがい村。地内には天文九年(一五四〇)池田備中宗政の次男勘次郎俊甫が築いたと伝える館跡がある(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録には「塩井」とみえ、高五六九石余。「新編会津風土記」によると家数一九、地内に小荒井組の米を納める米倉があった。


渋井村
しぶいむら

[現在地名]古宇ふるう郡泊村大字堀株村ほりかつぷむら字渋井

明治初年(同二年八月―同六年の間)から同一五年(一八八二)まで存続した岩内いわない郡内の村。茅沼かやぬま村の南に位置し、すぐ南に堀株村内の茶津ちやつがある。明治四年の「春日紀行」に渋井とみえる。同六年の「後志国地誌提要」に渋井村とあり、戸数一六・人口七五、寄留人口一九。同一四年岩内御鉾内おむない学校渋井分校設置。


渋井村
しぶいむら

[現在地名]古川市渋井

多田ただ川支流の渋井川に灌漑される豊かな水田地帯の一角にあり、北は玉造たまつくり新田にいだ村、南は飯川いいがわ村、東は塚目つかのめ村、西は荒田目あらたのめ村と接する。正保郷帳に田四七貫四一二文・畑二貫三三一文とあり、ほかに同所新田一八貫三六二文がある。「安永風土記」によれば、田八八貫五一文・畑三貫二一三文で、蔵入は二〇貫五〇三文、給所は七〇貫七六一文、人頭三六人(うち沽却禿一四)、家数二六(うち借屋四)、男六七・女五五、馬二〇とあり、家数・人数に比して生産力が高い。


渋井村
しぶいむら

[現在地名]下妻市渋井

鬼怒きぬ川左岸にあり、北は尻手しつて村。室町中期以降は多賀谷氏が支配し、慶長七年(一六〇二)天領となる。同年の常陸国河内郡之内渋井村御検地帳(門井家文書)によれば、田畑は合計九町三反六畝二〇歩。のち下総大輪藩領(寛文朱印留)となり、さらに丹後峯山藩領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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