改訂新版 世界大百科事典 「渋沢財閥」の意味・わかりやすい解説
渋沢財閥 (しぶさわざいばつ)
渋沢栄一・敬三の経営支配下にあった事業群を渋沢財閥とよぶ。渋沢栄一は1873年大蔵省を退官し,第一国立銀行(のちの第一銀行)総監役に就任,ついで75年から1916年まで頭取を務めながら,日本資本主義の指導者かつ財界の世話役として,多数の近代産業企業の設立・育成に関与した。彼が発起人,株主,重役などとして関係をもった企業は王子製紙,大阪紡績,東京電灯をはじめとして総計約500社にのぼるといわれている。また財閥の形成にも力を貸し,とくに三井,古河,浅野,大倉の各財閥の発展においては側面からの渋沢の援助・助言が大きな意味をもった。このように多数の事業に関与したにもかかわらず,渋沢自身は第一銀行以外の特定企業の経営に深入りして支配しようとはせず,また蓄財欲もなかったため,他の有力財閥に匹敵するような規模の事業経営網をつくることはなかった。ただ,第一銀行頭取を辞任して実業活動から引退する前年の1915年に渋沢家の財産を集中管理し,一括した投資活動を展開するための渋沢同族株式会社を設立しており,同社の主要な投資先であり,かつ渋沢一族の経営支配力が強い第一銀行,東京貯蓄銀行,東京石川島造船所,自動車工業,渋沢倉庫,石川島飛行機などの企業がいわゆる渋沢財閥の事業網とみなされることが多い。しかし,各社とも渋沢一族の持株比率はさほど高くなく,また第一銀行の経営活動も他の財閥銀行のような特定企業との結びつきや同族色がないため,これら事業網を他の有力財閥と同様に同族の封鎖的支配下の多角的事業経営体とみなすことは無理であろう。さらに43年には第一銀行が三井銀行と合併して帝国銀行となったため,中核的企業を失うことになった。なお,渋沢同族会社は敗戦後の46年に持株会社に指定され,翌年解散した。
執筆者:中村 青志
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報