改訂新版 世界大百科事典 「王子製紙」の意味・わかりやすい解説
王子製紙[株] (おうじせいし)
日本最大の製紙会社。1873年渋沢栄一が三井組,小野組,島田組を勧誘して共同経営の製紙会社を設立したことに始まる。最初は社名を〈抄紙会社〉と称し,資本金15万円。機械類を輸入し,またイギリス人技師を雇い入れた後,75年東京府下王子村の工場が運転を開始した。翌76年社名を〈製紙会社〉に変更。しばらく経営不振が続いたが,西南戦争を契機とする新聞・雑誌の発展によって洋紙市場が形成されるにおよび,経営基盤が確立した。欧米のパルプ製造技術を学んだ大川平三郎(渋沢栄一の娘婿)の努力で,88年天竜川上流の気田に日本最初のパルプ工場(気田工場)建設に着手,90年完成した。93年に王子製紙(株)と社名を改めたが,このころには日本最大の製紙会社に成長していた。96年,中部工場建設に伴い三井銀行の援助を受けることになり,藤山雷太が役員として送り込まれ経営の実権を握った。これに対して労働者の不満が爆発し大ストライキが起こったが,三井から藤原銀次郎が支配人として入りストを収拾,王子製紙は完全に三井の勢力下に入った。1910年苫小牧に当時としては最新鋭の新聞用紙工場を建設し,15年以降,工場の買収,建設で樺太・朝鮮への進出を果たした。16年には大阪で都島工場を買収,また大蔵省十条分工場の払下げを受け,24年に小倉製紙所と有恒社,25年に東洋製紙などをつぎつぎと併合した。その後も,金解禁およびアメリカの恐慌の影響で苦境におちいった樺太工業(株)(1913年大川平三郎が樺太を拠点に設立),富士製紙(株)(1923設立。一時大川が実権を握ったが,29年以降は王子が実権をもつ)を合併し,33年資本金1億5000万円の王子製紙が誕生,全国洋紙生産の80%余(新聞用紙は95%)を占め,世界有数の大製紙会社となった。このような王子製紙の発展を主導したのは藤原銀次郎(1920年社長,38年会長就任)で,彼は関連産業につぎつぎと手をのばし,王子は30余の会社を支配する一つの財閥を形成した。しかし,こうした独占も第2次大戦後の過度経済力集中排除法によって終止符が打たれ,49年苫小牧製紙(株),十条製紙(株),本州製紙(株)の3社に分割された。52年財閥商号使用禁止が解かれたのを機に苫小牧製紙は王子製紙工業(株)に,さらに60年王子製紙(株)に改称した。89年東洋パルプを合併,また93年神崎製紙を合併し新王子製紙と改称したが,96年本州製紙と合併して旧称に復した。現在も業界最大手であり,新聞用紙のシェアは第1位,膨大な社有林を有する日本最大の土地保有企業である。資本金1039億円(2005年9月),売上高1兆1851億円(2005年3月期)。
執筆者:青木 良三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報