江戸初期の僧。書画をよくした。堺(さかい)の人で、幼名を辰之助(たつのすけ)、のち式部と改める。17歳で男山石清水八幡宮滝本坊(おとこやまいわしみずはちまんぐうたきもとぼう)の社僧となり、実乗(じつじょう)(?―1627ころ)、実弁(じつべん)に師事して真言密教を修め、阿闍梨(あじゃり)となる。のち滝本坊住職となり、法名を昭乗、惺々翁(せいせいおう)、空識(くうしき)と号した。晩年は住坊の南に松花堂を構え、自らの号として、風雅三昧(ざんまい)の隠居生活を送った。和歌、連歌(れんが)に長じ、茶道をたしなむ文化人として聞こえたが、書画骨董(こっとう)の鑑識にも優れ、蒐集(しゅうしゅう)した茶器は「八幡(やわた)名物」として知られている。また大師(だいし)流の書をよくし、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)、近衛信尹(このえのぶただ)とともに「寛永(かんえい)の三筆」の一人に数えられ、その書流は「滝本流」の名で江戸期を通じて長く流行した。画(え)は狩野山楽(かのうさんらく)に学んだといわれ、彩色画もよくしたが、晩年には洒脱(しゃだつ)な水墨画を多く描いた。
[神崎充晴 2017年8月21日]
江戸初期の文人,書家,画人。山城男山八幡宮(石清水八幡宮)滝本坊の真言僧で,俗姓中沼,名は式部といった。20歳で得度し真言密教を修め,阿闍梨(あじやり)法印に至ったが,晩年は滝本坊を弟子に譲り,男山の南に松花堂を営んで小堀遠州,石川丈山,狩野探幽らと交わり,文墨,茶に親しんだ。書は近衛竜山に御家流(おいえりゆう)を学び,やがて大師流の書法などをあわせ,瀟洒(しようしや)な書風を完成して本阿弥光悦,近衛信尹とともに〈寛永の三筆〉あるいは〈洛陽の三筆〉とうたわれた。水墨画や大和絵着色画,仏画にも長じたが,狩野山楽に学んだとも,自ら牧谿(もつけい)を慕って技風を得たともいい,当時の専門画家の域にまで達していた。滝本坊は乗淳,憲乗,乗円とうけつがれ,彼らもまた書,画技に長じて代々松花堂(流)を名乗った。昭乗の水墨画は茶席でことに重んじられるが,遠州らとの交わりの中で茶をみがいたといい,遠州と並んで茶道大成者の一人に数えられる。公家や文人を招いた松花堂の茶会と交友のようすは《松花堂茶会記》に詳しい。
執筆者:木下 政雄
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…ほかには江戸時代に日本へ渡った黄檗(おうばく)宗の3僧,隠元,木庵(もくあん)(1611‐84),即非(そくひ)(1616‐71。諱は如一(によいち),木庵の法弟)を〈黄檗の三筆〉,また近衛信尹(のぶただ)(号は三藐院(さんみやくいん)),本阿弥光悦,松花堂昭乗を〈寛永の三筆〉と呼ぶが,この呼名もおそらく明治以降であろうといわれ,1730年代(享保年間)には寛永三筆を〈京都三筆〉と呼んでいる。また巻菱湖(まきりようこ),市河米庵,貫名海屋(ぬきなかいおく)(菘翁(すうおう))の3人を〈幕末の三筆〉という。…
…伏見宮尊朝法親王は青蓮院流でもとくに尊朝流と呼ぶ名筆で知られる。公卿では青蓮院流から近衛流を創始した近衛前久(さきひさ)があり,とくにその子近衛信尹(のぶただ)は強い筆線で大字の仮名に異色の書風を現出し,三藐院(さんみやくいん)流と称され,江戸初期の本阿弥光悦,松花堂昭乗とともに〈寛永の三筆〉と呼ばれる。その大字屛風は当時盛行した障壁画に伍して和様の書を迫力ある作品にしあげている。…
※「松花堂昭乗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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