湯沢村(読み)ゆざわむら

日本歴史地名大系 「湯沢村」の解説

湯沢村
ゆざわむら

[現在地名]湯沢町湯沢

北は関山せきやま(現塩沢町)、南は神立かんだつ村。集落は魚野うおの左岸沿いに走る三国街道に沿って、北から堀切ほりきり湯元ゆもと・下湯沢・上湯沢・熊堂くまのどうからなる。宿場でもあり、北のせき宿(現塩沢町)まで一里二八町、関東方面三俣みつまた宿まで二里。石白いしじろ郷の入口にあたり、郷名の遺称地字石白が神立村境にある。年未詳の上葺萱注文(雲洞庵文書)によれば「石白郷」から雲洞うんとう(現塩沢町)の上葺用の萱二千五〇〇把を供出している。

正保国絵図に「湯沢村」高二八〇石余と「上湯沢村」高二六〇石余がみえる。天和三年郷帳では高四一二石八斗余のほかに同所見出新田高四石九斗余、同所新田高九石余がある。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では田三二町五反余・畑二〇町五反余。入会秣場七〇町余。家数一八四、男四六四・女三五八、牛二二・馬一〇一。


湯沢村
ゆさわむら

[現在地名]関川村湯沢

あら川右岸に位置し、北東の湯蔵ゆぞう山から湯蔵川・荒沢あらさわ川が流れ出て荒川に合流する。西は滝原たきばら村、南は荒川を隔て上関かみせき村と対する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「垂水分遊村」とみえ、本納一〇石八斗・縄高二〇石六升七合、家五軒とある。また東方のさわは「垂水分さわ村」とみえ、本納六斗五升・縄高三石五斗二升、家三軒。近世は初め村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領、寛保二年(一七四二)陸奥白河藩領、文化八年(一八一一)幕府領。正保国絵図には「湯沢村 二百五十石余」とみえる。万治元年(一六五八)の女川組本田畑検地寄目録(平田家文書)によれば高一五五石三斗余、田八町七反六畝余・畑屋敷八町六反四畝余で、大内淵おうちぶち番所の金子仁右衛門・飯塚次右衛門持の下々畑があった。寛政三年(一七九一)の村々御案内書上帳(大滝正輔氏蔵)によれば見取の柳原一〇町一反余がある。


湯沢村
ゆざわむら

[現在地名]甲西町湯沢

落合おちあい村の西に位置し、西は中野なかの(現櫛形町)。慶長六年(一六〇一)の湯沢村検地帳(県立図書館蔵)によると上田二町七反余・中田一町六反余・下田一町七反余・下々田一町四反余、上畑一町三反余・中畑一町九反余・下畑二町二反余・下々畑二町五反余、田畑計一五町五反余、ほかに弾正荒一町余・熊蔵荒五町五反余、屋敷数は三五、計五反余、ほかに除地二四四坪(広清院屋敷)。慶長古高帳によると高一九八石余、ほかに八幡領一石四斗余。寛文一二年(一六七二)の検地帳(県立図書館蔵)では田畑計三一町一反余、屋敷二町四反余、高三八〇石余、ほかに小物成高五石余。

享保九年(一七二四)写の宝永二年(一七〇五)の村明細帳(落合村役場旧蔵文書)によると、年貢は九分の三は小切金納(一両に付き四石一斗四升)、九分の二も金納だが換算はその年の指定米価、残りの九分の四は小物成高とともに米納。


湯沢村
ゆざわむら

[現在地名]都南村湯沢・流通センター北りゆうつうせんたーきた一丁目

現村域の西端にあたり、東は永井ながい村、赤林あかばやし(現矢巾町)、南は広宮沢ひろみやさわ(現同上)、北は羽場はば村・上飯岡かみいいおか村。中央以西は山地。元和二年(一六一六)南部利直は前年の飢饉に対処するため湯沢などに検見役として四戸久助を派遣し、種子農料の給付および免税、六月中の諸役停止を指示している(「南部利直書状」花巻四戸文書)。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高二六一石余、七ヵ年平均の免二ツ九分四厘七毛。元禄十郡郷帳では広宮沢村に入るとある。


湯沢村
ゆざわむら

[現在地名]本荘市石沢いしざわ 湯沢

東北はたきさわ村、東南に大簗おおやな村、西南はたて村と接する。東に荒倉あらくら山があり、石沢川から分水し、鳥田目とりため村から万願寺まんがんじ村へと流れる石沢堰が湯沢村を貫流する。

近世には石沢郷に属し(出羽国風土略記)、元和一〇年(一六二四)の「本田御検地帳 田方」(石沢郷土誌)に湯沢村の田地持百姓八名の名が記されている。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に一四一石とあり、元禄一一年(一六九八)の「六郷伊賀守拝地 石沢分」(石沢郷土誌)にも一四一石とある。天保六年(一八三五)の石沢郷百姓水呑名取帳(同書)では水呑二九名がいた。


湯沢村
ゆざわむら

[現在地名]北上市黒沢尻町くろさわじりちよう 湯沢

北上川の左岸、北上高地末端の丘陵地に立地する。北・東・南の三方が山で西方北上川に向かって開け耕地となっている。北は平沢ひらさわ村、南は黒岩くろいわ村。土沢つちざわ(現和賀郡東和町)に向かう道が当村から入って宮田みやだ(現同上)に通じる。仙台藩領江刺郡水押みずおし村には藩境を越えて道が開けていた。藩境には境塚が築かれており、村に一名の古人が任命され監視にあたった(「御免地高証文」平野文書)。和賀氏の家臣湯沢氏の居館と伝える湯沢館跡がある。天正九年(一五八一)一月の和賀氏分限録(小田島家記録写)によると湯沢隼人正が一千五〇石を知行


湯沢村
ゆざわむら

[現在地名]小野町湯沢

谷津作やつざく村の東、矢大臣やだいじん(九六四・七メートル)南西麓の山間に立地。村名は当地たてこしに往古から微温湯鉱泉が湧出していたことに由来(田村郡郷土史)。もと広瀬ひろせ(現滝根町)の枝郷として開発された村で、近世初めは会津領、寛永四年(一六二七)三春藩領、正保元年(一六四四)幕府領と変遷、同二年から三春藩領となる。同年秋田俊季が三春に入部した際、広瀬村から分立し立村したと推定されている。同年の在々屋敷数家数并人数(三春町史)に村名がみえ、屋敷数一七・家数二二、人数一五八。


湯沢村
ゆさわむら

[現在地名]朝日村黒田くろだ

高根たかね川左岸にあり、元禄郷帳に黒田村枝郷として村名がみえる。天保五年(一八三四)の万留帳(小田家文書)には、元禄一二年(一六九九)の報告の写として、七四年以前薦川こもがわ村百姓が中原なかはら村地内を開発して成立した村と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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