改訂新版 世界大百科事典 「満蒙開拓」の意味・わかりやすい解説
満蒙開拓 (まんもうかいたく)
満州事変以後,日中戦争敗戦にいたるまで,中国東北地方に行われた日本人の農業移民政策。同地は一般に満州と呼ばれたが,日本では隣接の内モンゴル(蒙古)地方とあわせて〈満蒙〉と総称,日露戦争以来日本の特殊権益地域と自認していた。農民の移住も関東都督府や満鉄の手で何度か試みられたがいずれも失敗に終わり,本格化するのは満州事変以後である。関東軍司令部付東宮鉄男(とうみやかねお),同軍参謀石原莞爾(かんじ),農業教育家加藤完治,農林次官石黒忠篤らの積極的な建議で,まず1932年から関東軍と拓務省の主導による試験移民が4年間にわたって入植した。36年には広田弘毅内閣が20年間に100万戸の送出計画を国策として決定,以後毎年組織的に多数の農民が渡航した。その数は敗戦時に約27万人に達した。
この時期に満州への移民が重要国策とされたのは,それまでのおもな移民先であったブラジルなど南米諸国が受入制限を始めたという背景があるが,満州事変で中国本土から切り離し,完全に日本の支配下においた満州に,日本人人口を増加させて治安維持と対ソ戦備の一手段にするのが主目的で,政治的・軍事的性格が優先していた。同時に昭和恐慌による農村の疲弊を救済し,国内の社会矛盾の激発を予防するための土地・人口調整策でもあった。したがって移民はおもに耕地の少ない山村地帯の二・三男層から選ばれ,開拓団という特殊な武装集団をつくって入植し,絶えず軍事訓練を受けた。開拓団は戸数の規模によって集団(200~300戸),集合(50戸前後),分散(それ以下)の三つに区分され,府県,郡,町村などの地縁関係で編成された。とくに日中戦争期には,一つの村の人口を組織的に分割し,1戸当りの耕地を増大させて母村の更生を図る分村移民制度が強力に奨励された。しかし戦時体制への移行は多方面に労働力を必要として成人移民を困難にしたため,数え年16~19歳の少年による満蒙開拓青少年義勇軍の送出が行われ,戦争末期にはこれが移民の主力となった。さらに転廃業で職を失った都市商工業者などの帰農移民も見られた。これら多数の移民の訓練のため,茨城県の内原訓練所(1939年1月加藤完治に委託して開設)をはじめ各県や現地に多くの訓練施設がつくられ,送出・受入機関として満州移住協会,満州拓殖会社(のち公社)が設立された。
開拓団は満州国内でも抗日ゲリラの遊撃地周辺やソ連国境付近に重点的に配置された。日本国内では満州には未開の沃野が待っているように宣伝されたが,現実には入植地のほとんどは既耕地を安価に強制収用したものであった。そのため1934年憤激した農民が反日蜂起(依蘭事件または土竜山事件)を起こすなど,中国人の怨嗟(えんさ)の的となった。45年8月ソ連が参戦して満州に進攻すると同時に移民団は本国帰還を余儀なくされたが,関東軍の退却に取り残され,悲惨な境遇で多くの犠牲者を出した。それは,中国社会の中に移民を包摂する条件がないまま,侵略政策の一環として強行された満蒙移民の特殊性の結果であった。引揚げ途中でやむなく幼児を手放した移民も多く,現在,中国残留孤児問題として日中間の外交課題にもなっている。
執筆者:岡部 牧夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報