ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
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いわゆる金解禁を契機に、1929年(昭和4)以降の世界大恐慌と重なって、30年から翌年にかけて日本経済を危機的状態に陥れた、第二次世界大戦前におけるもっとも深刻な恐慌。
第一次世界大戦最中の1917年(大正6)9月、日本はアメリカに続いて金輸出禁止(事実上の金本位制停止)を行った。アメリカは戦後の19年早くも金輸出を解禁し、金本位制に復帰した。しかし日本は、19年末には内地・外地あわせて正貨準備も20億4500万円に上り、国際収支も受け取り超過であったにもかかわらず、金解禁を行わなかった。1920年代には世界の主要国は次々と金本位制に復帰し、金為替(かわせ)本位制を大幅に取り入れた国際金本位制の網目(ネットワーク)が再建され、アメリカの好況と対外投資をてことして世界経済は「相対的安定期」を享受した。日本政府もこの潮流に応じて幾度か金解禁を実施しようとした。しかし20年(大正9)の戦後恐慌、22年の銀行恐慌、23年の関東大震災、さらにはそれまでたび重なった財界救済のための特別融資の整理強行を契機におこった27年(昭和2)の金融恐慌など、相次ぐ経済危機にみまわれて、踏み切ることができなかった。28年6月にはフランスも新平価(5分の1切下げ)による金輸出解禁を行ったので、主要国では日本のみが残された。同年には日本の復帰思惑も絡んで円の為替相場は激しく変動し、為替安定(金解禁による旧平価での為替レートの固定)の要求は、輸出・輸入業者の別なく、財界全体の要求となって高まった。
1929年7月、張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件(同年6月4日)の処理をめぐり田中義一(ぎいち)政友会内閣が瓦解(がかい)し、かねてから金解禁即行を迫っていた浜口雄幸(おさち)民政党内閣が成立、井上準之助(じゅんのすけ)大蔵大臣、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外務大臣の布陣で、「金解禁・財政緊縮・非募債と減債」と「対支外交刷新・軍縮促進・米英協調外交」を掲げて政策転換を断行した。井上は対外準備の補充や財政金融引締めのデフレ政策を推進し、30年1月に金解禁を実施した。しかし、解禁を見越して輸出代金回収を早め、輸入代金支払いを繰り延べる、いわゆるリーズ・アンド・ラグズleads and lagsを伴う国際収支の好調と為替相場の上昇は、解禁後一転して逆調となった。緊縮財政と農業恐慌とが重なって未曽有(みぞう)の不況となり、ルンペン時代を現出した。恐慌の深刻さは、29年を100%とした30、31年の経済諸指標の萎縮(いしゅく)にはっきり現れている。国民所得は81%、77%に減少、卸売物価は83%、70%に下落、米価は両年63%に暴落、輸出品の二本柱の綿糸は66%、56%、生糸は66%、45%に大暴落している。輸出は68%、53%、輸入も70%、60%への激減であった。会社の減資解散が激増し、生産制限、共同販売、合理化が広がり、企業連合(カルテル)、企業合同(トラスト)の結成が進んだ。したがって、雇用は減り、実質賃金水準は下がり、労働争議が激増した。30年には、温情主義経営を誇った鐘紡(かねぼう)にも大争議がおこり、東京市電、市バスのストで市民の足が麻痺(まひ)した。30年の失業者は250万余と推定されている。生糸の暴落は養蚕農家を打ちのめしたが、30年の大豊作、31年の凶作による農産物価格の下落、収入の減少は、零細経営の自作・小作農家に破滅的な打撃となった。東北地方では飢餓水準の窮乏に陥った。雑穀はもとより、野草で飢えをしのぐありさまで、娘の身売りが盛んに行われ、農村の小学校教員の給料不払いが続出した。「キャベツは50個でやっと敷島(しきしま)(刻みたばこ)一つ、蕪(かぶ)は百把なければバット(巻きたばこ)一つ買えません。これでは肥料代を差引き一体何が残りますか」(埼玉県北足立(あだち)郡の農民の陳情)という状況であった。農工価格差(シェーレ)は、租税負担の加重と相まって、農民の窮迫を強め、農家総負債額は約49億円、1戸当り827円に上った。
政府は農民への低利資金の融通や米、生糸の市価維持対策をとったが、緊縮財政の枠のなかではまったく不十分にしか行えなかった。工業面では、1930年6月に臨時産業合理局を設け、31年4月に工業組合法、重要産業統制法を制定して、輸出中小企業を中心とした合理化やカルテルの結成を促進した。しかし、大恐慌の荒波のなかに船出した金解禁・緊縮政策は、31年9月のイギリスの金本位制離脱と満州事変勃発(ぼっぱつ)で暗礁に乗り上げ、大量のドル買い(資本逃避)を誘発した。同年12月には第二次若槻(わかつき)礼次郎内閣が瓦解し犬養毅(いぬかいつよし)政友会内閣が成立すると、ただちに再禁止となり、金本位制復帰はわずか2年の短命に終わった。この2年間の深刻な産業および農業恐慌は社会的危機を激化し、浜口、井上、団琢磨(だんたくま)らを襲った右翼テロとなって暴発し、戦争とファシズムへの道を準備する結果となった。
[長 幸男]
『長幸男著『昭和恐慌』(岩波新書)』
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