松井康之(読み)まついやすゆき

改訂新版 世界大百科事典 「松井康之」の意味・わかりやすい解説

松井康之 (まついやすゆき)
生没年:1550-1612(天文19-慶長17)

安土桃山~江戸初期の武将。山城守正之の子。通称甚介,胃介,新介。幼時より将軍足利義輝に近侍したが,1565年(永禄8)伊勢参宮中に義輝が殺され,一族もともに死んで,所領を失った。足利義昭,のち織田信長に仕え,縁類の細川藤孝に属した。69年細川家の客分となり,藤孝の養女を室とし,丹波丹後の経営に従う。箕作(みつくり)城攻め,小牧の戦などを歴戦して武功をたて,信長,豊臣秀吉,徳川家康らに知られ,86年(天正14)従五位下佐渡守に任じ,豊臣の姓を許された。細川一門格で家老となる。藤孝の退隠後細川忠興に仕え,秀吉には関白秀次の謀反に忠興関与の疑いを解き,家康には石田三成への荷担が詐謀であることを説いて事なきを得た。関ヶ原の戦の際,杵築(きつき)の戦功により1601年(慶長6)2万5000石余で,杵築城を守った。
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朝日日本歴史人物事典 「松井康之」の解説

松井康之

没年:慶長17.1.23(1612.2.24)
生年天文19.11.1(1550.12.8)
安土桃山時代の武将。父は正之,母は荒川澄宣の娘。将軍足利義輝の近習。義輝の暗殺後,その弟義昭に伴って逃れた近江で細川藤孝(幽斎)と知り合う。永禄11(1568)年9月,藤孝の山城青竜寺奪回に功あり,義昭の口添えで藤孝の客分となる。天正8(1580)年藤孝が丹後を与えられると藤孝の次男長岡(細川)興元と並んで家老となり,次いで久美城代となった。同12年の小牧・長久手の戦の功では羽柴(豊臣)秀吉より腰物を下され,翌年母方分料として山城八瀬村13石をあてがわれる。同18年,藤孝の長男忠興と共に小田原攻めに参加。文禄1(1592)年,忠興に従って朝鮮に渡り,晋州城攻略に功あり,秀吉より直参,石見半国の申し出を受けるが,幽斎父子への恩を理由に固辞。慶長5(1600)年忠興が豊後国6万石を得ると同国杵築城を預かり,関ケ原の戦ののち,忠興が豊前国をも拝領すると,2万5000石を与えられ,家老となった。千利休の高弟で,茶道にも優れた。<参考文献>細川護貞『細川幽斎』,『綿考輯録』1巻

(石田晴男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松井康之」の解説

松井康之 まつい-やすゆき

1550-1612 戦国-江戸時代前期の武将。
天文(てんぶん)19年11月1日生まれ。将軍足利義輝につかえ,のち細川藤孝(ふじたか)(幽斎)・忠興(ただおき)にしたがう。関ケ原の戦いの際は杵築(きつき)城をまもり,忠興が豊前(ぶぜん)中津藩(大分県)藩主となると,2万6000石をあたえられて筆頭家老となった。茶の湯は千利休の高弟のひとり。慶長17年1月23日死去。63歳。通称は甚介,胃介,新介。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松井康之」の意味・わかりやすい解説

松井康之
まついやすゆき

[生]天文19(1550).11.1. 京都
[没]慶長17(1612).1.23. 豊後,杵築
安土桃山時代の武将。山城守正之の子。母は荒川治部大輔澄宣の娘。初め足利氏に,次いで細川氏に仕え,細川氏とともに,小牧・長久手の戦い,小田原征伐,文禄の役などに出征し,戦功を立てた。豊臣秀吉から石見国を与えられようとしたが,細川氏の陪臣であるため固辞した。細川氏の重臣として豊後杵築で2万 6000石を与えられた。

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367日誕生日大事典 「松井康之」の解説

松井康之 (まついやすゆき)

生年月日:1550年11月1日
安土桃山時代;江戸時代前期の武将
1612年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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