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松井康之 まついやすゆき

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

松井康之
まついやすゆき

[生]天文19(1550).11.1. 京都
[没]慶長17(1612).1.23. 豊後,杵築
安土桃山時代の武将。山城守正之の子。母は荒川治部大輔澄宣の娘。初め足利氏に,次いで細川氏に仕え,細川氏とともに,小牧・長久手の戦い,小田原征伐,文禄の役などに出征し,戦功を立てた。豊臣秀吉から石見国を与えられようとしたが,細川氏の陪臣であるため固辞した。細川氏の重臣として豊後杵築で2万 6000石を与えられた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

松井康之 まつい-やすゆき

1550-1612 戦国-江戸時代前期の武将。
天文(てんぶん)19年11月1日生まれ。将軍足利義輝につかえ,のち細川藤孝(ふじたか)(幽斎)・忠興(ただおき)にしたがう。関ケ原の戦いの際は杵築(きつき)城をまもり,忠興が豊前(ぶぜん)中津藩(大分県)藩主となると,2万6000石をあたえられて筆頭家老となった。茶の湯千利休高弟のひとり。慶長17年1月23日死去。63歳。通称は甚介,胃介,新介。

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朝日日本歴史人物事典の解説

松井康之

没年:慶長17.1.23(1612.2.24)
生年:天文19.11.1(1550.12.8)
安土桃山時代の武将。父は正之,母は荒川澄宣の娘。将軍足利義輝の近習。義輝の暗殺後,その弟義昭に伴って逃れた近江で細川藤孝(幽斎)と知り合う。永禄11(1568)年9月,藤孝の山城青竜寺奪回に功あり,義昭の口添えで藤孝の客分となる。天正8(1580)年藤孝が丹後を与えられると藤孝の次男長岡(細川)興元と並んで家老となり,次いで久美城代となった。同12年の小牧・長久手の戦の功では羽柴(豊臣)秀吉より腰物を下され,翌年母方分料として山城八瀬村13石をあてがわれる。同18年,藤孝の長男忠興と共に小田原攻めに参加。文禄1(1592)年,忠興に従って朝鮮に渡り,晋州城攻略に功あり,秀吉より直参,石見半国の申し出を受けるが,幽斎父子への恩を理由に固辞。慶長5(1600)年忠興が豊後国6万石を得ると同国杵築城を預かり,関ケ原の戦ののち,忠興が豊前国をも拝領すると,2万5000石を与えられ,家老となった。千利休の高弟で,茶道にも優れた。<参考文献>細川護貞『細川幽斎』,『綿考輯録』1巻

(石田晴男)

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世界大百科事典 第2版の解説

まついやすゆき【松井康之】

1550‐1612(天文19‐慶長17)
安土桃山~江戸初期の武将。山城守正之の子。通称甚介,胃介,新介。幼時より将軍足利義輝に近侍したが,1565年(永禄8)伊勢参宮中に義輝が殺され,一族もともに死んで,所領を失った。足利義昭,のち織田信長に仕え,縁類の細川藤孝に属した。69年細川家の客分となり,藤孝の養女を室とし,丹波,丹後の経営に従う。箕作(みつくり)城攻め,小牧の戦などを歴戦して武功をたて,信長,豊臣秀吉,徳川家康らに知られ,86年(天正14)従五位下佐渡守に任じ,豊臣の姓を許された。

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367日誕生日大事典の解説

松井康之 (まついやすゆき)

生年月日:1550年11月1日
安土桃山時代;江戸時代前期の武将
1612年没

出典|日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について | 情報

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