(鈴木廣之)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
安土(あづち)桃山時代を代表する画家。狩野松栄(しょうえい)直信(なおのぶ)(1519―1592)の長子。名は初め源四郎、のちに州信、永徳はその号である。幼年より祖父元信(もとのぶ)の薫陶を受け、彼の天才はその期待によくこたえた。
1566年(永禄9)弱冠24歳にして、父直信とともに大徳寺聚光院(じゅこういん)の障壁画(しょうへきが)を制作、『花鳥図』『琴棋書画図(きんきしょがず)』(ともに国宝)を描く。ことに前者は襖(ふすま)16面にわたって、松に鶴(つる)、芦(あし)に雁(がん)、梅に小禽(しょうきん)を近景的構図のうちに展開させたもので、ダイナミックな躍動感にあふれ、この青年画家のほとばしるような若さの発露の表現であるとともに、壮麗な桃山障壁画の開幕を告げる記念碑的大作である。
そうした永徳の大画面様式は、新時代の覇者織田信長、豊臣(とよとみ)秀吉の共感をよび、安土城(1576)、伏見城(桃山城、1594)、聚楽第(じゅらくだい)(1587)など、当代を代表する建造物の障壁画はすべて永徳の指導下に制作された。わけても信長が築いた安土城の天守や御殿の障壁画は、『信長公記(しんちょうこうき)』が伝えるように、あらゆる画題、あらゆる技法を駆使したもので、障壁画史上画期的な偉業であった。しかしこれら膨大な作品は建築物と運命をともにしたため、永徳の遺作はその巨名に比し意外に少ない。そのなかで彼の代表作としてあげるべきものには、前記の聚光院襖絵以外に、1574年(天正2)信長が上杉謙信に贈った『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)』(上杉家、国宝)、『唐獅子(からじし)図屏風』(御物(ぎょぶつ)、国宝)、『許由巣父(きょゆうそうほ)図』(東京国立博物館、重要文化財)がある。南禅寺本坊大方丈の障壁画(重要文化財)や『檜(ひのき)図屏風』(東京国立博物館、国宝)も彼の作である可能性が強い。これらの障屏画(しょうへいが)にみられる永徳の豪壮な様式は、単に狩野派のみならず、その後の桃山画壇に決定的な影響を与えた。天正(てんしょう)18年9月14日没。48歳。さらにいっそうの飛躍が期待されてしかるべき年齢であった。
[榊原 悟]
『土居次義著『日本美術絵画全集9 狩野永徳・光信』(1981・集英社)』▽『鈴木廣之著『名宝日本の美術17 永徳 等伯』(1983・小学館)』
桃山時代の画家。狩野松栄の長男。幼名は源四郎,後に州信。法眼あるいは法印となる。幼い時から将来を期待され,祖父狩野元信の指導を受けたと思われる。1566年(永禄9)24歳で父とともにあたった大徳寺聚光院の障壁画制作では,最も重要な場所である室中(仏間)を父に代わって担当し,翌年には近衛邸の障壁画をまかされるほどであった。彼の豪放な新様式は織田信長に認められ,76年(天正4)からの安土城建設には天下一の画家として参加した。その際,宗家を弟宗秀に預けて自分は子の光信とともに一家をあげて天守や城内殿舎の障壁画制作に赴き,褒美(ほうび)として300石の知行を受けたといわれる。信長没後は豊臣秀吉に登用され,85年の大坂城,86年の正親町院(おおぎまちいん)御所,87年の聚楽第(じゆらくだい),88年の天瑞寺,90年の新造御所など,秀吉による大建築の障壁画のほとんどすべてを,狩野派工房による集団制作で次々にこなしていった。この活躍によって狩野派が桃山画壇の中心に座ることになった。数多く制作された障壁画のほとんどが失われ,確証ある作品の少ない永徳画の中で,聚光院の《四季花鳥図襖》と上杉家の《洛中洛外図屛風》とが特筆される。《四季花鳥図》は襖16面にわたって梅と松の巨木を中心とした花鳥を描いたもので,画面の枠を突き破るようなその大きさや力強さは,《本朝画史》(1693)に述べられている〈松梅は長さ一,二十丈,あるいは人物は高さ三,四尺〉という永徳の大画の画風そのままである。この大画表現は狩野派だけでなく長谷川等伯や海北友松など桃山画壇全体に影響を及ぼし,桃山花鳥画の基本的構成法となった。大画に対する細画の作品が《洛中洛外図屛風》である。これは京都の人々の生活を細かく描きこんだもので,金地に建物や人物を濃彩で描き,生動感にあふれている。この屛風は1574年に織田信長から上杉謙信に贈られたもので,永徳が桃山期に流行する花鳥と風俗の両画題を初期から手がけていたことを示している。ほかに《唐獅子図屛風》(宮内庁)や《許由・巣父(そうほ)図》(東京国立博物館)が永徳の作品とされ,また作風の上では《檜図屛風》(東京国立博物館)が,記録の上では南禅寺本坊大方丈の障壁画が永徳筆の可能性のあるものとする説がある。
執筆者:斉藤 昌利
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1543.1.13~90.9.14
桃山時代の狩野派の画家。松栄(しょうえい)の長男。祖父元信にも直接学ぶ。父とともに制作にあたった大徳寺聚光院方丈障壁画(国宝)は,父松栄の温雅な作風から力動感にあふれた作風への転換をすでに示しており,桃山障壁画の代表作として知られる。豪壮な大画様式は織田信長・豊臣秀吉ら覇者に好まれ,安土城・大坂城・聚楽第(じゅらくてい)などの障壁画制作を次々に任じられたが,48歳で急死。障壁画の大半は建物とともに焼失し,確実な遺品は少ないが,代表作として豪快な筆勢でモチーフを極端に大きく描く「唐獅子図屏風」があり,永徳様式を受け継ぐ作品は多い。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…染織では,明や琉球との交易がもたらした金襴(きんらん),緞子(どんす),繻珍(しゆちん)など高度な織物の技術に刺激されて,堺や京都で独自に華麗で斬新な意匠がつくり出されたが,それは,室町時代末である。狩野永徳が1566年(永禄9)大徳寺聚光院の襖に描いた水墨《四季花鳥図》は,戦国大名三好氏のために描かれたものだが,若年の筆とも思えない大胆な筆使いと力動感みなぎる構図には,新しい時代の到来を思わせる爽快な響きがこもっている。 76年(天正4)から79年にかけ信長が築いた安土城の天主は,外部五重,内部7階のこれまでにない斬新な意匠と構造によるものであり,桃山美術の性格を決定づける上で,画期的意義を持つものだったと思われる。…
…室町中期から明治初期まで続いた,日本画の最も代表的な流派。15世紀中ごろに室町幕府の御用絵師的な地位についた狩野正信を始祖とする。正信は俗人の専門画家でやまと絵と漢画の両方を手がけ,とくに漢画において時流に即してその内容を平明なものにした。流派としての基礎を築いたのは正信の子の元信である。漢画の表現力にやまと絵の彩色を加えた明快で装飾的な画面は,当時の好みを反映させたものであり,また工房を組織しての共同制作は数多い障壁画制作にかなうものであった。…
※「狩野永徳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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