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狩野永徳 かのう えいとく

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美術人名辞典の解説

狩野永徳

室町後期・安土桃山時代の画家。狩野宗家五世。山城国生。名は初め州信、のち重信、通称は源四郎、古永徳と呼ばれる。父松栄に画法を受け、祖父元信の筆意を会得する。織田信長御用絵師となるが、晩年は豊臣秀吉に仕えた。天正18年(1590)歿、48才。

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デジタル大辞泉の解説

かのう‐えいとく【狩野永徳】

[1543~1590]安土桃山時代の画家。名は州信(くにのぶ)。松栄(直信)の子。祖父元信の期待を一身に受け、早くから画才を発揮。織田・豊臣氏に仕え、安土城大坂城聚楽第(じゅらくだい)などの障壁画に筆をふるった。豪壮華麗な桃山障壁画様式を確立し、また狩野派全盛の基礎をつくった。

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百科事典マイペディアの解説

狩野永徳【かのうえいとく】

桃山時代の画家。名は州信(くにのぶ)。祖父狩野元信の指導を受け,早くから画才を発揮,織田信長に認められ,1576年の安土築城に際し起用され,一門を率いて天守や御殿の障壁画を制作。
→関連項目海北友松狩野山楽狩野松栄狩野孝信狩野探幽狩野光信

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

狩野永徳 かのう-えいとく

1543-1590 織豊時代の画家。
天文(てんぶん)12年1月13日生まれ。狩野松栄の長男。祖父元信にまなぶ。永禄(えいろく)9年大徳寺聚光(じゅこう)院の襖絵(ふすまえ)を制作。さらに織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城,聚楽第などの障壁画を手がける。華麗でダイナミックな表現様式により,狩野派の黄金期をもたらした。天正(てんしょう)18年9月14日死去。48歳。名は州信。通称は源四郎。作品に「洛中洛外図屏風」「許由・巣父図」「唐獅子図屏風」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

狩野永徳

没年:天正18.9.14(1590.10.12)
生年:天文12.1.13(1543.2.16)
桃山時代を代表する画家のひとり。曾祖父正信より続く京都の絵師の家に生まれた。狩野松栄の長男。天文21(1552)年,祖父元信が幼い永徳を引き連れて室町幕府将軍足利義輝への正月参賀に赴いたことが知られ(『言継卿記』),若年より祖父の訓育を受けて狩野家総領としての将来を嘱望されていたものと想像される。三好長慶の菩提を弔って永禄9(1566)年に創建された大徳寺聚光院の障壁画は,父松栄と共に弱冠24歳の永徳が制作に当たったが,方丈の主室である室中は永徳が担当して「四季花鳥図」を描き,翌10年には近衛前久邸の座敷絵制作が記録され(『言継卿記』),活躍の片鱗がうかがえる。30,40歳代の永徳は,織田信長の安土城(1576),豊臣秀吉の大坂城(1585)と聚楽第(1587),正親町院御所(1586),秀吉が生母天瑞院のために大徳寺山内に建立した天瑞寺(1588),京都御所(1590)など,時の権力者の建築物の室内を飾る障壁画をつぎつぎと手がけた。城や御所などの大規模な建築の障壁画制作を一手に請け負うことができた理由は,すでに元信の代に仏画から肖像画,絵巻,水墨画まで,あらゆる画法を修得して幅広い注文に応じられる工房制作の方式が整えられ,これを継承した工房の拡充に永徳が成功したことがあげられる。同時に,元信の画法を基礎に置きながら,変化に富んだ時代と,新興武家などに拡大した受容者層の好みを先取りするスタイルを創り上げたことも大きい。 『本朝画史』(1693)に,武家諸侯が大邸宅を築いて金壁を設けるときは必ず永徳の画を求めた,と記されているように金碧障壁画にその手腕が発揮された。しかも「長さ10,20丈もある松梅や3,4尺もある人物」を粗放な筆法で描き,水墨画の時は藁筆を使う「大画」は新意に満ちた怪々奇々の画風だったと評されている。秀吉以降に造られた大広間の巨大な壁面のために永徳が工夫した画法が,桃山画壇に与えた影響は少なくない。しかし,永徳の代表作となるべき多くの障壁画は建物と運命をともにして今には伝わらず,聚光院の障壁画のほか「唐獅子図屏風」(三の丸尚蔵館蔵),上杉本「洛中洛外図屏風」(米沢市蔵),障屏画の断片を掛幅に改装した「許由巣父図」(東京国立博物館蔵)と「伯夷叔斉図」など,従来から永徳画と考えられてきた遺品は少ない。天正18(1590)年の八条宮智仁親王邸の障壁画と伝承される「檜図屏風」(東京国立博物館蔵)を,その作風から永徳画と判断する説があり,また,南禅寺本坊の障壁画の前身が正親町院御所のそれと推測されるので,この中に永徳画が含まれている可能性もある。永徳の死後は,愛児鶴松の死を悼んだ秀吉が天正19年に創建した祥雲寺の障壁画(現智積院障壁画)の制作が長谷川等伯一派の手に落ち,画壇での地位を一時脅かされたが,狩野家は,その後一族の勢力を結集し,徳川幕府に重用される門派の基礎を確保することに成功した。<参考文献>『障壁画全集 大徳寺真珠庵・聚光院』,土居次義『永徳と山楽』,武田恒夫『日本の美術94号 狩野永徳』(至文堂)

(鈴木廣之)

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世界大百科事典 第2版の解説

かのうえいとく【狩野永徳】

1543‐90(天文12‐天正18)
桃山時代の画家。狩野松栄の長男。幼名は源四郎,後に州信。法眼あるいは法印となる。幼い時から将来を期待され,祖父狩野元信の指導を受けたと思われる。1566年(永禄9)24歳で父とともにあたった大徳寺聚光院の障壁画制作では,最も重要な場所である室中(仏間)を父に代わって担当し,翌年には近衛邸の障壁画をまかされるほどであった。彼の豪放な新様式は織田信長に認められ,76年(天正4)からの安土城建設には天下一の画家として参加した。

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大辞林 第三版の解説

かのうえいとく【狩野永徳】

1543~1590) 安土桃山時代の画家。山城国の生まれ。幼少の時から祖父元信の指導を受ける。織田信長・豊臣秀吉に用いられ、安土城・大坂城・聚楽第じゆらくだいなどに豪壮雄大な障壁画を制作、御用絵師としての狩野派の基礎を確立した。代表作「洛中洛外図屛風」「唐獅子図屛風」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

狩野永徳
かのうえいとく

[生]天文12(1543).1.13. 京都
[没]天正18(1590).9.14. 京都
桃山時代前期の画家。狩野松栄の長子,初名は源四郎,のち州信 (くにのぶ) と改名。永徳は号。祖父元信から直接絵を学び,早くから天分を発揮。永禄9 (1566) 年 24歳で大徳寺聚光院客殿の『四季花鳥図』『琴棋書画図』襖絵 (ともに国宝) を描き,翌 10年から近衛家の座敷絵を弟子とともに制作したことが『言継卿記』より知られる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

狩野永徳
かのうえいとく
(1543―1590)

安土(あづち)桃山時代を代表する画家。狩野松栄(しょうえい)直信(なおのぶ)の長子。名は初め源四郎、のちに州信、永徳はその号である。幼年より祖父元信(もとのぶ)の薫陶を受け、彼の天才はその期待によくこたえた。
 1566年(永禄9)弱冠24歳にして、父直信とともに大徳寺聚光院(じゅこういん)の障壁画(しょうへきが)を制作、『花鳥図』『琴棋書画図(きんきしょがず)』を描く。ことに前者は襖(ふすま)16面にわたって、松に鶴(つる)、芦(あし)に雁(がん)、梅に小禽(しょうきん)を近景的構図のうちに展開させたもので、ダイナミックな躍動感にあふれ、この青年画家のほとばしるような若さの発露の表現であるとともに、壮麗な桃山障壁画の開幕を告げる記念碑的大作である。
 そうした永徳の大画面様式は、新時代の覇者織田信長、豊臣(とよとみ)秀吉の共感をよび、安土城(1576)、桃山城(1584)、聚楽第(じゅらくだい)(1587)など、当代を代表する建造物の障壁画はすべて永徳の指導下に制作された。わけても信長が築いた安土城の天守や御殿の障壁画は、『信長公記(しんちょうこうき)』が伝えるように、あらゆる画題、あらゆる技法を駆使したもので、障壁画史上画期的な偉業であった。しかしこれら膨大な作品は建築物と運命をともにしたため、永徳の遺作はその巨名に比し意外に少ない。そのなかで彼の代表作としてあげるべきものには、前記の聚光院襖絵以外に、1574年(天正2)信長が上杉謙信に贈った『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)』(上杉家)、『唐獅子(からじし)図屏風』(御物(ぎょぶつ))、『許由巣父(きょゆうそうほ)図』(東京国立博物館)がある。南禅寺本坊大方丈の障壁画や『檜(ひのき)図屏風』(東京国立博物館)も彼の作である可能性が強い。これらの障屏画(しょうへいが)にみられる永徳の豪壮な様式は、単に狩野派のみならず、その後の桃山画壇に決定的な影響を与えた。天正(てんしょう)18年9月14日没。48歳。さらにいっそうの飛躍が期待されてしかるべき年齢であった。[榊原 悟]
『土居次義著『日本美術絵画全集9 狩野永徳・光信』(1981・集英社) ▽鈴木廣之著『名宝日本の美術17 永徳 等伯 』(1983・小学館)』

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世界大百科事典内の狩野永徳の言及

【安土桃山時代美術】より

…染織では,明や琉球との交易がもたらした金襴(きんらん),緞子(どんす),繻珍(しゆちん)など高度な織物の技術に刺激されて,堺や京都で独自に華麗で斬新な意匠がつくり出されたが,それは,室町時代末である。狩野永徳が1566年(永禄9)大徳寺聚光院の襖に描いた水墨《四季花鳥図》は,戦国大名三好氏のために描かれたものだが,若年の筆とも思えない大胆な筆使いと力動感みなぎる構図には,新しい時代の到来を思わせる爽快な響きがこもっている。 76年(天正4)から79年にかけ信長が築いた安土城の天主は,外部五重,内部7階のこれまでにない斬新な意匠と構造によるものであり,桃山美術の性格を決定づける上で,画期的意義を持つものだったと思われる。…

【狩野派】より

…室町中期から明治初期まで続いた,日本画の最も代表的な流派。15世紀中ごろに室町幕府の御用絵師的な地位についた狩野正信を始祖とする。正信は俗人の専門画家でやまと絵と漢画の両方を手がけ,とくに漢画において時流に即してその内容を平明なものにした。流派としての基礎を築いたのは正信の子の元信である。漢画の表現力にやまと絵の彩色を加えた明快で装飾的な画面は,当時の好みを反映させたものであり,また工房を組織しての共同制作は数多い障壁画制作にかなうものであった。…

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