猪子村(読み)いのこむら

日本歴史地名大系 「猪子村」の解説

猪子村
いのこむら

[現在地名]三川町猪子

あか川左岸の自然堤防上に位置し、南は天神堂てんじんどう村、北は成田新田なりたしんでん村、東は赤川を隔てて押切おしきり新田村、西は大山おおやま川を隔ててばら新田村(現鶴岡市)。杉山氏の開発とする説がある(筆濃余理)。明治初年の家数一三八で、大村の一つにあげられる(荘内史要覧)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に猪之子村とみえ、高一九石余。寛永元年庄内高辻帳では高四〇八石余。正保郷帳では高一千二七六石余と近世初期に急速に開田が進んだ。庄内藩家臣石原弥五右衛門は寛永六年(一六二九)に加増地一〇〇石を新田で与えられることになり、そのうち八〇石を当村で開発した。その後も代々石原家が地方知行し、手作したり百姓に小作させたりした(筆濃余理附録)。なお天明四年(一七八四)頃に代金三〇〇両で知行地を質入している(鈴木文書)。また万治二年(一六五九)に村高のほかに三〇〇石ほどの隠田があることを村民が討え出たことで同年は二五〇石分の年貢上納を命じ、翌年改めて竿入れされることになった(閑散文庫)


猪子村
いのこむら

[現在地名]能登川町猪子

能登川村の北東、朝鮮人街道沿いにあり、北を瓜生うりゆう川が西流する。「興福寺官務牒疏」によれば神崎郡垣見かきみ郷「猪子里」に成仏教寺があり、開基実信、僧房九宇、本尊釈迦如来と記す。応永三五年(一四二八)と推定される閏三月二日の伊庭満員書状(今堀日吉神社文書)に「猪子入道」とあり、この伊庭氏被官は当地の地侍であったと考えられる。しかも正応期(一二八八―九三)成立という伊庭氏系図(神崎郡志稿)に伊庭盛清が猪子次郎を称したとあるから、伊庭氏の支族であったと思われる。六角氏滅亡後は蒲生氏郷に従って会津黒川くろかわ(若松)に移ったという。


猪子村
いのこむら

[現在地名]鳥取市猪子

横枕よこまくら村の南西、猪子川の最上流部に位置し、南に衣笠きぬがさ(三七七・二メートル)がある。西へ臼谷うすだに越を越えると荒神谷こうじんだに村に至り、猪子川の約四町下から大岩おおいわ越を越えると大森おおもり村に至る(因幡志)。拝領高は一五四石余、本免五ツ七分。藪役銀二五匁が課されていた(藩史)。和田氏の給地があった(給人所付帳)。享保一四年(一七二九)の村高一七二石余(同一五年「田畑名寄帳」奥田家文書)、寛政九年(一七九七)の生高一八一石余(「田畑名寄帳写」有田家文書)。「因幡志」では家数三三。


猪子村
ししこむら

[現在地名]牛久町猪子

水戸街道沿いにあり、北は東大和田ひがしおおわだ村。寛永六年(一六二九)牛久藩領となり(寛政重修諸家譜)、「寛文朱印留」に村名が載る。元禄郷帳の村高は一六一石余で、幕末は牛久藩領一一一石余、旗本由良氏領七三石余(各村旧高簿)。天明八年(一七八八)の助郷被仰付御請書写(飯島家文書)によれば、牛久宿の定助郷村七村の一で、助郷勤高七八石であったが、文化二年(一八〇五)には助郷勤高は六一石余で、ほかに加助郷勤高一九石余があり(「助郷差村被仰付御請書写」野口家文書)、定助郷の地域は牛久藩領、加助郷の地域は旗本領と思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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