猫実村(読み)ねこざねむら

日本歴史地名大系 「猫実村」の解説

猫実村
ねこざねむら

[現在地名]浦安市猫実一―五丁目・北栄きたさかえ一―四丁目

当代島とうだいじま村の南、旧江戸川左岸河口付近の三角洲にあり、同川の分流さかい川を挟んで南は堀江ほりえ村。集落は境川に沿って形成される。応永二四年(一四一七)八月の法華経ほけきよう(中山法華経寺の前身)子院法宣ほうせん(現市川市)日英の末寺等支配注文(法宣院文書)に「八幡猫真講今ハ破檀那等」とみえる。江戸時代には幕府領であった。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえ、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高八〇石余。同一五年幕府代官による本田検地を受け、以後元文三年(一七三八)・天保六年(一八三五)・同一五年・嘉永二年(一八四九)新田検地が実施された(大塚家文書)。旧高旧領取調帳では高四六三石余。近世初期まで地先の塩浜塩業が行われていたが、浜が荒廃したため寛永六年(一六二九)塩浜役永を免除された(「塩浜由来書」国立史料館蔵)。以後は漁業と稲作が生業の中心になり、塩浜には一番土堤・二番土堤・三番土堤とよばれる堤防が築かれている。


猫実村
ざねねこざねむら

[現在地名]岩井市猫実

大口おおぐち村の西の台地に所在。南北に守谷もりや街道が通じていた。守谷街道は幸田こうだ馬立の自性またてのじしよう院裏・岩井の延命えんめい寺の北方などに旧道が残る。中世には大口とともに一郷を形成したと思われ、元禄期(一六八八―一七〇四)以後に天領となった。天保九年(一八三八)の猿島郡結城郡岡田郡五十二ケ村農間渡世書上帳(秋葉光夫文書)によると村高四六五・〇八七五石(天保郷帳の高は猫実新田分を合せたもの)、家数七五のうち六七は農業専門、八は農間渡世分で、煮売屋五・居酒屋一・穀商売一・薪商売一。人口三三八。弘化四年(一八四七)の伝馬免除願書(小林家文書)に「一猫実村之儀元禄十二卯年御検地受、尤其節には飯沼開発以前に御座候(中略)開発後藻草刈取場一切無之(中略)明和已来潰百姓多く出来人少に相成(中略)水戸道中取手宿加助役相勤来リ、尚又去ル文政五午年より天保七申年迄日光道中間々田宿助郷被 仰付候、去午年稀成水難に付、御引方願上候得共当村に限り聊御引方無之、無余儀買納仕居候」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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