猿掛城跡(読み)さるかけじようあと

日本歴史地名大系 「猿掛城跡」の解説

猿掛城跡
さるかけじようあと

[現在地名]真備町妹、小田矢掛町横谷

真備町と矢掛やかげ町にまたがる標高二四三メートルの猿掛山にある。北方山との間の谷を小田おだ川が流れ、同川沿いに近世の山陽道が通る。古河古松軒吉備の志多道」などにこの地をふさげば西国の往来は止まると記され、「備中兵乱記」には小田川の船関所がみえるなど、東西交通の要衝を扼す位置を占める。

築城年代は不詳であるが、庄氏系譜(荘文書)には庄家長が平氏没落後に備中国を賜り猿懸さるかけの城を築き居城としたとする。以後、庄氏歴代が居城し、天文二年(一五三三)上野氏を破り備中松山まつやま(現高梁市)に移ったのちは城番を置いた。

猿掛城跡
さるがけじようあと

[現在地名]吉田町多治比

吉田盆地の北西多治比たじい川沿いの谷を北に見下ろす丘陵上に位置する。標高三八〇メートル、比高一二〇メートル。毛利元就が青少年期を過ごした城で、「高田郡村々覚書」に、麓よりの高さ二町、麓まわり一四町、本丸縦四間・横四間、二の丸縦二〇間・横七間、三の丸縦六間・横四間、本丸南の壇縦五間・横三間、井の段縦六間・横三間、御馬屋敷縦八間・横五間、中腹に二段の壇があると記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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