奈良県大和郡山市に築かれた城で、3重の堀に囲まれている。織田信長を後ろ盾に大和国を統一した
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奈良県大和郡山市にある城。郡山付近には室町時代に郡山氏,薬園(やくおん)(矢興)氏らの在地領主が成長,もともと在地領主の居館であったとみられる。1506年(永正3),郡山氏も加わる大和筒井氏方西脇衆が郡山城に拠って細川政元の武将赤沢宗益の軍と戦い,敗れた。これが当城の初見。以後戦国時代を通じて,筒井方の拠点の城の一つとなった。80年(天正8)織田信長は当城以外の大和の城割りを命じ,当城を筒井順慶に与えた。順慶は大規模な修築に着手し,豊臣秀吉からも大和一国を安堵され,山崎の戦の翌83年には天守を築いて普請をひとまず完成させた。筒井氏の伊賀転封後,85年に豊臣秀長が入り,大和・紀伊・和泉100万石の大名にふさわしく修築した。紀州根来寺の山門を移して城門とし,また奈良中から石の供出を命じた。現在も石垣中に転用石材が多数見いだされる。ついで増田長盛が入城し,城下町全域を含む総構えを構築した。しかし長盛は関ヶ原の戦には西軍に属して改易され,天守も伏見城に移された。大坂の陣の際には筒井旧臣が当時の城番筒井定慶を襲い,城下を焼いた。1615年(元和1)水野勝成が入ってから城はしだいに復活し,1724年(享保9)柳沢吉里が入り,柳沢15万石の居城として整備し,幕末に及んだ。現在,柳沢神社や柳沢文庫がある本丸跡に石垣と堀などがのこされるほか,二の丸跡には郡山高校があり,市役所も旧大手門内にある。県指定史跡。
執筆者:熱田 公
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(1)南北朝期から戦国期にかけての山城(やまじろ)。広島県安芸高田(あきたかた)市吉田町吉田の郡山にあり、吉田郡山城という。安芸国吉田荘(しょう)の地頭から国人領主化し、さらに戦国大名となった毛利(もうり)氏の本城である。標高約400メートルの山頂に本丸を設け、南に二の丸・三の丸、西に姫丸などの曲輪(くるわ)があり、毛利元就(もとなり)はこの城を本拠として各地に転戦していった。1591年(天正19)元就の孫輝元(てるもと)のとき、広島に城を移して廃城となった。
(2)戦国期~江戸期の平山城(ひらやまじろ)。奈良県大和郡山(やまとこおりやま)市城内町にあり、普通、大和郡山城とよばれ、犬伏城ともいう。奈良盆地の中央に位置し、佐保川の支流、秋篠(あきしの)川と富雄(とみお)川の中間に突き出た形の台地の上に築かれた。織田信長から大和一国を与えられた筒井順慶(つついじゅんけい)が1578年(天正6)以降築城に着手、さらに85年豊臣(とよとみ)秀吉の弟秀長(ひでなが)が入城し、紀伊・和泉(いずみ)・大和100万石の大守にふさわしい城に大増改築を施した。その後、増田(ました)、水野、松平、本多と城主はかわり、1724年(享保9)柳沢吉里(やなぎさわよしさと)が入り、歴代相継いで明治維新に至った。
[小和田哲男]
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…当町域一帯は平安時代末期に祇園社領吉田荘とされ,領家は花山院家,地頭は毛利氏であった。北東流する可愛川に多治比川が合流するあたり,沖積地にある吉田はその中心地で,南北朝期以降毛利氏はここに郡山(こおりやま)城を築いて本拠とし,1591年(天正19)毛利輝元が広島城に移るまで城下町として栄えた。江戸時代は山陰地方と広島城下を結ぶ雲石路の宿場で,可愛川舟運の港もあり,俗に〈吉田千軒〉と称される町であった。…
※「郡山城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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