玉川勝太郎(読み)タマガワカツタロウ

デジタル大辞泉 「玉川勝太郎」の意味・読み・例文・類語

たまがわ‐かつたろう〔たまがはかつタラウ〕【玉川勝太郎】

[1896~1969](2世)浪曲師。東京の生まれ。本名、石渡金久。2世広沢虎造と並び称される名調子で、「天保水滸伝」を得意とした。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「玉川勝太郎」の意味・わかりやすい解説

玉川勝太郎
たまがわかつたろう
(1896―1969)

浪曲師。2代目。本名石渡金久。東京生まれ。関東節三派の一つを打ち立てた初代勝太郎(1881―1926)に入門し、1932年(昭和7)2代目を継ぐ。同年代の広沢虎造(とらぞう)とは互いによきライバルと認め合う仲で、玉川のお家芸であった『次郎長伝』も虎造の人気が勝るや勝太郎はこれを捨て、勝太郎の『天保水滸伝(てんぽうすいこでん)』があたるや虎造も得意の『水滸伝』『国定忠治(くにさだちゅうじ)』を捨てた。第二次世界大戦前には『噫無情(ああむじょう)』、戦後は『耳無し芳一』に挑むなど、ラジオでは積極的に新作にも取り組んだ。1964年(昭和39)3代目(1933―2000)を初代玉川福太郎に譲った。3代目は本名石渡栄太郎。東京生まれ。1948年に2代目に入門し、2代目と同じく『天保水滸伝』を得意とした。1989年度(平成1)文化庁芸術祭賞受賞。

[秩父久方]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の玉川勝太郎の言及

【浪花節】より

… このように各派に名手が輩出して全国に流行した浪花節も,大正中期以後,落語,講談とともに映画の進出に圧倒されて衰退の傾向をたどっていたが,昭和時代にはいって,満州事変以後,太平洋戦争にかけて,国家主義的な時代風潮を背景にして,ふたたび隆盛の様相を呈した。この時期には,《壺坂霊験記(つぼさかれいげんき)》の浪花亭綾太郎(1893‐1960),《佐渡情話》の寿々木米若(すずきよねわか),《天保水滸伝(すいこでん)》の2代玉川勝太郎,《清水次郎長伝》の2代広沢虎造,《紀伊国屋(きのくにや)文左衛門》の梅中軒鶯童(ばいちゆうけんおうどう),《赤城の子守唄》の春日井梅鶯(ばいおう)(1908‐74),《義士伝》の3代吉田奈良丸,《恩讐(おんしゆう)の彼方に》をはじめとする文芸浪曲の酒井雲(さかいくも)(1899‐1973),《唄入り観音経》の三門博(みかどひろし)(1907‐ ),《野狐三次(のぎつねさんじ)》の東家浦太郎(1919‐ ),《灰神楽(はいかぐら)三太郎》の相模(さがみ)太郎(1899‐1972),七色の声を使い分けた女流浪曲の雄2代天中軒雲月(伊丹秀子(いたみひでこ))など多くの人気者があらわれ,レコード,ラジオの普及,〈浪曲映画〉による映画とのタイアップなどによって,それ以前にも見られなかったほどに浪花節が大衆のなかに浸透していった。
[戦後の浪曲界]
 第2次大戦後は,軍事物や義士物など封建的演題への反動によって不振をきわめていたが,しだいに復活して,浅草国際劇場や明治座などの大劇場において浪曲大会を開催したこともあり,民間放送発足以来,大衆芸能の主要な種目としての座を獲得し,浪曲台本の専門作家も多く見られるようになり,一方,〈浪曲天狗道場〉のようなラジオ聴取者参加番組も製作された。…

※「玉川勝太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android