武蔵野(山の手)台地の東端で、多くの谷に刻まれた牛込台とその周辺の地域をいう。近世には現新宿区の北東部一帯をさしたが、中世にはこれより広い地域をさしたと思われる。中世には
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京都新宿区東部の地名。谷の多い武蔵野(山手)台地からなる。古くより牛込の地域名が早稲田から戸山原方面にかけてあったが,1878年の東京市15区制により,神楽坂や市谷地区などを含む牛込区が設置された。1947年,四谷,淀橋両区と合体し,現在の新宿区の一部となったが,のち住居表示の変更によって行政名からは姿を消し,今では,この旧牛込区の範囲を指すことが多い。明治以後,住宅地として発展し,夏目漱石,坪内逍遥,永井荷風,泉鏡花,北原白秋らが牛込台に住んだこともあった。現在,出版・印刷会社の多い地区として知られる。
執筆者:正井 泰夫
近世には江戸城北西地域の称で東は江戸城外堀,南は市谷,西は大久保,北は小日向・小石川に続く。古代の牛の牧にちなむ名といわれるが,地名の初出は1340年(興国1・暦応3)の足利義詮御教書である。江戸初期の牛込村村高は471石余であるが,1628年(寛永5)に賜与された小浜藩酒井家の広大な下屋敷(現,矢来町のうち),根来(ねごろ)百人衆組(根来組)屋敷などの武家地として開かれた。また寛永期(1624-44)までの江戸城拡張工事により当地域内に移転した多くの寺社を含めて神楽坂を上りつめた酒井屋敷近くに寺町が形成され,その間を縫うように町屋が発達した。1826-27年(文政9-10)の資料によれば当地域の全73町のうち,光照寺・安養寺・竜門寺など寺社門前町屋が45町を占め,次いで御簞笥町・御細工町などの武家拝領町屋15町,肴町・袋町・改代町など代官・町奉行の両支配を受ける町並地10町があった。また全町総家数約3600軒(地主・家持444,地守・家守376,地借236,店借2600)であった。
執筆者:松崎 欣一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
東京都新宿区北部の地区。1878年(明治11)牛込区が成立したが、1947年(昭和22)四谷(よつや)区、淀橋(よどばし)区と合併し新宿区となったため、行政上の地名は消失した。その範囲は東は市谷(いちがや)、神楽坂(かぐらざか)から西は早稲田(わせだ)、大久保に及んでいた。山手(やまのて)台地の一部の牛込台にあり、坂が多い。昔このあたりに武蔵野(むさしの)の牧場があり、多くの牛を飼育したことが地名の由来という。中世、牛込氏(群馬県大胡(おおご)氏の子孫)が居住したが、その城跡は袋(ふくろ)町の光照(こうしょう)寺域という。住宅地であるが、飲食店などの商業や出版印刷業も多く、早稲田大学、東京女子医科大学、国立国際医療研究センターなどがある。現在も通称地名となっており、小・中学校、郵便局、警察署、交差点、道路などの名称に「牛込」を冠したものが多い。東京地下鉄東西線が通る。2000年(平成12)都営地下鉄大江戸線が開通、牛込神楽坂、牛込柳町の2駅ができた。
[沢田 清]
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