奈良末期の蝦夷族長。生没年不詳。780年(宝亀11)蝦夷経営始まって以来の辺境の大乱となった,いわゆる〈伊治呰麻呂の乱〉をおこした。呰麻呂はもと陸奥国伊治村の蝦夷族長で,奈良末期の政府側の蝦夷経営にあたってはこれに協力し,外従五位下を授けられ,上治郡大領に任ぜられた。しかし同僚牡鹿郡大領道嶋大楯が,一門道嶋宿禰の権威を笠に,呰麻呂を蝦夷出身者と侮蔑するのを恨み,かつその大楯を信任する按察使(あぜち)紀広純にも含むところがあった。北の胆沢の賊が南下するのを防ぐために,広純が覚鱉(かくべつ)城を築くべく北辺に出張り,道嶋大楯以下をひきいて伊治城に入城したところ,この城において呰麻呂は広純・大楯らを殺して兵をあげ,南下して多賀城にも火をかけ攻めおとし,略奪をほしいままにして引き揚げた。その後の呰麻呂の消息は不明であるが,朝廷は鎮定に苦慮し,その後蝦夷経営が強化され,坂上田村麻呂の登場を見る。
→蝦夷
執筆者:高橋 富雄
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生没年不詳。伊治公(きみ)。古代蝦夷(えぞ)の族長。陸奥(むつ)国上治(かみじ)郡(伊治郡か)の大領(たいりょう)であったが、780年(宝亀11)伊治城(宮城県栗原郡)に按察使(あぜち)紀広純(きのひろずみ)、牡鹿(おしか)郡大領道島大楯(みちしまのおおたて)を殺して反乱を起こし、長駆、多賀(たが)城まで陥れる大乱となる。これを鎮定するための軍事行動は、その背後にあった胆沢(いさわ)蝦夷の抵抗を誘発し、およそ四半世紀にわたる古代国家掉尾(とうび)の国家統一戦争に発展する。呰麻呂は蝦夷出身ではあるが、政府側に組織され、外従(じゅ)五位下、郡司というその権力の末端機構に連なる俘囚(ふしゅう)の長であった。それだけに、この乱は「夷(い)を以(もっ)て夷を征す」という高等政治が重大な破綻(はたん)を見せ始めた一大異変であった。按察使の傲慢(ごうまん)、権威を笠(かさ)に着た同僚大楯が彼を夷俘(いふ)として侮蔑したことがきっかけとなり、屈折した憤懣(ふんまん)が爆発したものだった。呰麻呂のその後については記録がない。
[高橋富雄]
生没年不詳。奈良末期の蝦夷(えみし)の首長。伊治は「これはり」「これはる」と読んだ可能性が高い。778年(宝亀9)戦功により外従五位下を授けられた。780年,覚鱉城(かくべつじょう)造営のため陸奥按察使(むつのあぜち)紀広純(きのひろずみ)が伊治城に赴いた際に,呰麻呂は上治(伊治か)郡大領(だいりょう)として広純に従っていたが,同年3月,俘軍(ふぐん)を率いて反乱をおこし,広純と牡鹿(おしか)郡大領道島大楯(みちしまのおおたて)を殺した。呰麻呂が広純を嫌悪し,蝦夷出身の呰麻呂を侮辱した大楯を怨んでいたためという。呰麻呂は陸奥介大伴真綱(まつな)を助け多賀城に護送したが,真綱らが城から逃亡したため,府庫の物を奪い多賀城を焼き払った。この事件を契機として戦乱状態が長期にわたり続くが,その後の消息は不明。
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