胆沢城(読み)イサワジョウ

デジタル大辞泉 「胆沢城」の意味・読み・例文・類語

いさわ‐じょう〔いさはジヤウ〕【胆沢城】

岩手県奥州市にあった古代の城。延暦21年(802)蝦夷えぞ征討に際し、坂上田村麻呂築城。同23年、多賀城から鎮守府を移して東北経営の拠点とした。

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精選版 日本国語大辞典 「胆沢城」の意味・読み・例文・類語

いざわ‐じょういざはジャウ【胆沢城】

  1. 岩手県水沢市にあった古代の城柵。延暦二一年(八〇二)、蝦夷征伐の拠点として坂上田村麻呂が築き、ついで多賀城にあった鎮守府を移す。平安中期に機能を低下させたが、前九年の役頃まであったとされる。

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改訂新版 世界大百科事典 「胆沢城」の意味・わかりやすい解説

胆沢城 (いさわじょう)

8世紀後半の宝亀・延暦年間にかけて,岩手県南半部の北上川流域すなわち〈胆沢の地〉を対象としたいわゆる蝦夷征討がくりかえされた。ようやく801年(延暦20)にいたって,初の征夷大将軍坂上田村麻呂が長年にわたる蝦夷の反乱を制圧したとされている。そして一応の安定をみた地に築造されたのが胆沢城であり志波城である。胆沢城は803年田村麻呂が造陸奥国胆沢城使に任命され築造にあたり,同年完成したものである。胆沢城跡は岩手県奥州市の旧水沢佐倉河にあり,東に北上川,北に胆沢川が流れ,その合流点の南西に位置している。一帯は低平な沖積地であり,標高40~50m級の丘陵に築かれている多賀城や秋田城とは様相が異なる。この遺跡は江戸時代以来〈方八町〉と呼ばれていたが,実際の大きさは1辺約670mの方形である。外郭線は創建以来基底幅3mの築地で,内外に幅3~5mの溝を伴う。築地には門・櫓が付設され,南門は十二脚門,北門は八脚門である。城内の中央やや南寄りの微高地政庁跡があり,方約87mの規模で,掘立柱列により区画されている。中心に東西5間,南北3間の身舎(もや)に土庇あるいは孫庇のつく正殿が発見されている。ただしまだ脇殿,後殿等は検出されていない。このほか城内はいくつかの郭に区画して使用されていたことも判明している。政庁は3期,外郭線は2期の変遷が認められる。

 胆沢城が築かれると,それまで多賀城にあった鎮守府がこの胆沢城に遷置された。そこで胆沢城といえば鎮守府として著名であり,征夷の軍事基地的に理解されがちであるが,胆沢城はこの地域の蝦夷の反乱が治まった後築造されたものであり,行政的統治を眼目としたものと理解される。胆沢城に移された鎮守府はしだいに国府に対応する形で機構が整備され,業務内容も国府にかかわることが多くなり,多賀城にある国府と,国の南北を地域区分したような形で,陸奥国の北半を行政的に支配した。
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百科事典マイペディア 「胆沢城」の意味・わかりやすい解説

胆沢城【いさわじょう】

岩手県水沢市(現・奥州市)佐倉河にあった東北経営の拠点。蝦夷(えみし)鎮定のため,802年坂上田村麻呂が築城,鎮守府を置いた。1954年―1973年に岩手県教育委員会によって調査され,建造物の跡などが発見された。→多賀城
→関連項目岩手[県]漆紙文書蝦夷地金ヶ崎[町]黒石寺志波城玉造柵平泉俘囚水沢[市]陸奥国

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「胆沢城」の意味・わかりやすい解説

胆沢城
いさわじょう

平安時代前期の蝦夷(えぞ)経営の基地。鎮守府城。所在は岩手県奥州(おうしゅう)市水沢(みずさわ)区佐倉河(さくらかわ)の地と考えられている。古代国家の胆沢経営は奈良時代末期から始まって、すでに四半世紀を閲(けみ)していた。801年(延暦20)の胆沢蝦夷との戦いに、最後の勝利を得た坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、翌802年、造胆沢城使として、現地に下向、造城に着手した。東海、東山からおよそ4000人の農民が柵戸(きのへ)(一種の屯田兵(とんでんへい))として、移配された。803年には、田村麻呂は造志波城(しわじょう)使に任ぜられ、胆沢城の北を守る第一線の城を、今日の盛岡市太田に築いているから、胆沢城は802年のうちには成ったであろう。同時に多賀(たが)城に置かれていた鎮守府がここに移転し、国府多賀城に次ぐ鎮城となり、鎮守将軍の治するところとなって、諸事国府に準じた。数次にわたる発掘調査により、遺構が明らかになり、最近は、築城の年を示す漆(うるし)紙文書が出土するなどしているが、府城の威容を示す遺構としては、十分でないところもある。

[高橋富雄]

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日本の城がわかる事典 「胆沢城」の解説

いさわじょう【胆沢城】

岩手県奥州市にあった平安時代の城柵。国指定史跡。802年(延暦21)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が当時、胆沢と呼ばれていたこの地に城柵を築いた。田村麻呂は東国10ヵ国の兵士4000人を率いて奥州に侵攻し、蝦夷の指導者のアテルイ(阿弖流爲、阿弖利爲)を下して陸奥支配の基礎をつくった。多賀城(宮城県多賀城市)にあった鎮守府(陸奥の軍政の拠点)が胆沢城に移され、1083年(永保3)の後三年の役のころまでの約150年間、陸奥支配の中心となった。発掘調査により、胆沢城は2重の堀と築地塀に囲まれた一辺が670m、面積約46万m2の広大な方形の城だったことが明らかになっている。その中心には縦横90mの鎮守府の政庁が置かれていた。現在残されている遺構は、その一部である。JR東北本線水沢駅よりバスで約15分、八幡下車。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「胆沢城」の解説

胆沢城
いさわじょう

陸奥国におかれた古代の城柵。岩手県奥州市水沢区にあり,北上川・胆沢川が合流する沖積地に位置する。胆沢は蝦夷(えみし)の拠点として8世紀後半から征討の対象となり,801年(延暦20)征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が制圧し,のち蝦夷の首長阿弖流為(あてるい)らの降伏をみた。胆沢城は,802年に田村麻呂が造胆沢城使となって造営し,それにともない多賀城にあった鎮守府(ちんじゅふ)が移されて,陸奥国北部を支配する政治・軍事の拠点となった。源頼朝は1189年(文治5)「伊沢郡鎮守府」で吉書始(きっしょはじめ)を行った。遺構は国史跡。

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旺文社日本史事典 三訂版 「胆沢城」の解説

胆沢城
いさわじょう

平安初期,中央政府による東北経営の拠点となった城柵
801年坂上田村麻呂が蝦夷 (えみし) の本拠地胆沢を制圧し,翌年築城。802年鎮守府を多賀城から移し,陸奥北部支配のための政治・軍事上の拠点とされた。近年,発掘調査の結果,約0.7㎞平方の土塁内に,正殿などいくつかの建物の存在が確認され,その規模が明らかにされた。現在の岩手県水沢市佐倉河宇佐にある。

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世界大百科事典(旧版)内の胆沢城の言及

【鎮守府】より

…したがって鎮守府は通常の守備と城柵(じようさく)の造営,維持など陸奥国内の軍政を主たる任務としていたのであろう。802年(延暦21)坂上田村麻呂によって胆沢城(いさわじよう)が造営されると,多賀城から鎮守府が移された。この移転後の鎮守将軍の位階は,だいたい以前の四位から五位相当に下がり,陸奥介を兼務する例も見られた。…

※「胆沢城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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