対人関係で特別な、節度を超えた愛情や信頼を表現することをいう。愛情や信頼を示すことによって、相手からそれ以上のものを求めようとする態度のことも甘えといわれる。また、相手から圧力を受け、屈服を強いられるとき、その圧力を弱める手段としても使われ、道徳的な価値判断を超えて、許しを請う手段ともされる。
甘えの起源は、乳児が、母親と自分は別の存在であり、母親は自分から離れていくという体験をするため、母親との一体感を求めようとする感情にさかのぼる。そして母親に対する甘えの始まりとともに、他者に対する人見知りが始まるのである。一般には、甘えられる関係と、甘えることのできない関係とが区別される。前者を典型的に示しているものは親子の関係であり、後者は他人の間の関係である。他人の間の関係でも、親密さが増すにつれて、親子のような関係に近づくものであり、それは望ましい関係のように考えられている。第三者のいない2人の関係では甘えが通用するが、3人の関係になり、第三者の立場にたつ人がいるときには、甘えは通用しなくなる。親子の関係であっても、父、母、子という3人の関係においては、社会的道徳の価値判断が優先し、甘えることはできなくなる。この意味からいえば、甘えられる関係は、閉じられた2人の関係であり、そこには性愛的な色彩がある。男女間の関係でみられる甘えは、第三者を排除しようとするものにほかならない。
甘えられる親密な関係が望ましいものであるという考え方のなかには、反社会的性向を認めることができる。第三者からの批判を拒否し、閉じられた二者関係を社会の基本単位とみなすところがあるからである。
甘えということばは、土居健郎(どいたけお)(1920―2009)の『「甘え」の構造』(1971)以来、一種の流行語ともなり、日本人の性格が問題として取り上げられるとき、甘えは、しばしば日本人に固有な心理的特性とみなされるようになった。彼によると、日本語の「甘え」に対応する適切な外国語はなく、甘えは外国の文化ではみられない日本的特徴であるという。つまり、日本人の対人関係は、親子関係のように甘えられる関係から、甘えることのできない他人の関係に至る段階が想定され、甘えられる親子の関係が理想的な関係とみなされる。そこで、甘えられない他人の関係においては、甘えようとして甘えられないことから、恨み、ひがみ、すねるといったような感情がおきてくる。これは、個人の自我が心理的に確立していないからである。土居によれば、甘えの欲求が自我によって統制されるにしたがって「自分」という意識が形成される。自我は甘えを否定するのではなく、甘えの挫折(ざせつ)による孤独感に耐えることを通して形成される。甘えをこのように構造化することで信頼関係が生まれる。また、日本的思惟(しい)の特徴は、西洋的思惟に比較して、非論理的、直感的であり、これは日本で甘えの心理が支配的であることと無関係ではなく、もっぱら情緒的に自他一致の状態を醸し出すという甘えの心理は、まさしく非論理的といわねばならない、とも考えられている。こうした考え方からいえば、一心同体であろうと願うことが、日本人の対人関係を規定する重要な因子であることになる。甘えと精神分析の概念の関係については、ハンガリー出身のイギリスの精神分析家マイケル・バリントMichael Balint(1896―1970)の受身的対象愛、イギリスの精神分析家ドナルド・ウィニコットDonald Winnicott(1896―1971)の「だっこ」、ウィーン生まれのアメリカの精神分析家ハインツ・コフートHeinz Kohut(1913―1981)の自己対象、また対極としてのメラニー・クラインの羨望(せんぼう)などの概念との関係が検討されている。
[外林大作・川幡政道]
『土居健郎著『「甘え」の構造』(1971・弘文堂)』▽『土居健郎著『続「甘え」の構造』(2001・弘文堂)』▽『土居健郎・斎藤孝著『「甘え」と日本人』(2004・朝日出版社)』
精神医学者土居健郎(1920-2009)がアメリカ留学の文化衝撃の中から日本語特有のものとしてとり出し,日本人の心理の特性と深い関係があることを見いだした言葉。彼は甘えを鍵概念として日本人の人格構造を理解し,さまざまな精神病理を考察し,日本の文化と社会の特徴および現代日本の社会病理を鋭く分析した。〈甘え〉とは,彼によれば〈乳児の精神がある程度発達して,母親が自分とは別の存在であると知覚した後に,その母親を求めていることを指していう言葉〉である。つまり自分とは別の存在である母親が自分に欠くべからざるものであることを感じて母親に密着することを求めることであり,〈人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し,分離の痛みを止揚しようとすること〉である。外国で甘えの概念に相当するものはイギリスの精神分析学者M.バリントが〈受身的対象愛〉と表現しているもので,その背後にはいつも分離不安と葛藤が隠されていると推察している。臨床的には精神医学者森田正馬が神経質患者の主観的症状にとらわれるさまを過剰な注意集中による精神交互作用の結果であると説明しているが,甘え概念を用いて治療関係を分析すれば,そこには〈甘えたくとも甘えられない心が原動力として働いている〉ことに気づく。さらに〈神経症だけでなく精神病も甘えの病理として理解〉するに至る。後に土居は〈甘え〉と〈秘密〉の概念を用いて独自な精神医学体系を確立した。甘えの概念はS.フロイトの精神分析理論におけるリビドー概念にも相当するもので,臨床的にも寄与するところが大きい。文化人類学者中根千枝の〈タテ社会〉,法学者川島武宜の〈家族制度〉にも匹敵するすぐれた発想であると言えよう。
執筆者:飯田 真
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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【日本の母親の育児観の特徴】
日本の親子関係,とくに母子関係が非常に密着したものであるということが,昔から指摘されている。土居健郎は《甘えの構造》(1971)の中で,母親に十分に世話をされてきた赤ん坊は,生後7~8ヵ月ころになって母親とは分離した存在として自分があることがわかるようになると,以前の完全な母との一体の状態に戻ろう,あるいは少なくとも近づこうとするという。このような完全な依存状態を再び確立しようとする子どもの試みが〈甘え〉であるというのである。…
…この志向傾向を〈個別・状況主義〉と呼ぶならば,そうした状況倫理こそ,日本の文化型の基体を成すものであるといえよう。
[〈甘え〉の意味]
日本人の国民性または民族的性格については,〈甘え〉という分析概念でもって論じた精神医学者,土居健郎の理論が有名である。土居によれば,〈甘え〉は日本語にしかない語彙(ごい)であって,他者に対する依存欲求,ないし相手との一体化の願望を指している。…
※「甘え」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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