甘木村(読み)あまぎむら

日本歴史地名大系 「甘木村」の解説

甘木村
あまぎむら

[現在地名]甘木市甘木

菩提寺ぼだいじ村の南西に位置し、村の西部を小石原こいしわら(甘木川)が南流する。夜須やす郡に属し、西は依井よりい(現三輪町)、南東は下座げざ一木ひとつぎ村、東は同郡来春らいは村。甘木山安長あんちよう寺の門前町として発展したと伝えられる。福岡藩の成立後は同藩領。元和九年(一六二三)秋月藩が成立すると、周囲の村村が同藩領となったことから、秋月藩領のなかに浮ぶ福岡藩領の飛地となった。江戸時代には日田街道秋月街道(野町宿経由の新道が開かれる以前の道筋)が交わる交通の要衝にあたった。人馬継所や町茶屋が置かれ、夜須・上座じようざ・下座三郡の物産が集荷される在郷町として賑いをみせ、甘木宿・甘木町とも称された。町場はひがし町と西町に大きく分れ、東町は八日ようか町・馬場ばば町・みず町・七日なぬか町・四重しじゆう町・下新しもしん町の六町、西町は上新町・四日よつか町・山領やまりよう町・高原たかはら町・庄屋しようや町・うしろ町・二日ふつか町・川原かわはら町・横内よこうち町の九町からなり、計一五町を数えた。うち上新町・下新町の両町は寛文年間(一六六一―七三)に立てられた(甘木雑記)。町場への入口は五ヵ所、西の入口は横内町、上座口は水町、下座口は馬場町、秋月口は後町、筑後口は庄屋町であった(田圃志)。なお当地のことが記される地誌には元禄一三年(一七〇〇)の「甘木雑記」(光照寺玄哲梅才子著)、「甘木烟草種」(著者不明。福岡藩六代藩主黒田継高が当地を訪れた宝暦七年の成立か)、天明六年(一七八六)の「甘木根基」(草庵布館著)、文政五年(一八二二)の義倉のことが明記される「甘木紀聞」(著者不明)などがある。

小早川時代の指出前之帳では甘木村の田八一町二反余(分米一千三一五石余)・畠四五町一反余(分大豆一八五石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高二千一三八石余、うち大豆五五〇石余(慶長石高帳)。延宝四年(一六七六)には家数五二三・人数三千三七七、馬牛一七三(続風土記)。元禄五年には高二千一八三石余・反別一四二町三反余、家数五一七・社一・寺六、人数三千八八四(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も二千一八三石余。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数七〇〇(うち酒家九・麹家五)・人数三千八〇、馬七七・牛一五(別本「続風土記附録」)。「続風土記拾遺」では家数七七五・人数三千四二〇、馬八二・牛三、瓦工三・素焼物師六・絞染工九・薬肆七・製茶店六・酒家一〇・木綿晒屋八・蝋油屋二五・蒟蒻屋五、ほかに寒具屋・饅頭屋などもあった。明治初期の戸数九五六・人口四千四二七、馬五八・牛一六、人力車一・荷車一六・水車五、物産は藺・奉書紙・櫨実・菜種・茶・鶏卵・蜂蜜・煙草・酒・醤油・酢、生蝋(一一戸)・蝋燭(六戸)・種油・売薬・紺絞染・形付木綿・花染木綿・手拭木綿・晒木綿・黒茶木綿・茜木綿・鬱金木綿・摺物類・筆・菓子類・饅頭・瓦・瓶・焙烙などがあった(地理全誌)


甘木村
あまぎむら

[現在地名]広川水原みずはら上陽じようよう下横山しもよこやま

内田うちだ村の東に位置し、広川が流れる。久留米城下より豊後日田に向かう山中さんちゆう街道が通り、村内に一里塚が置かれていた(在方諸覚書)。天正一七年(一五八九)村名が定められ、甘木村一六町とされる(稲員家記)。村内に草場くさば一応いちおうかけはし馬場ばばおにふち逆瀬谷さかせだに黒岩くろいわの七名があった。本高一八七石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高三八〇石・役高六五五石。


甘木村
あまぎむら

[現在地名]大牟田市甘木

伏部ふすべ村の東、甘木丘陵の南麓にある。中世には三池本みいけほん郷および三池北みいけほく郷のうち。建長二年(一二五〇)一〇月二三日、上総国の御家人深堀左衛門尉能仲が承久の乱での勲功で得た地に替えて「筑後国甘木村東西」と深浦ふかうら村の地頭職に補任されている(「将軍藤原頼嗣袖判下文」深堀文書/鎌倉遺文一〇)。能仲は同七年三月二八日の将軍宗尊親王家政所下文(同文書/鎌倉遺文一一)で肥前国戸八とはち(現長崎市)の地頭職に補任されており、以後同浦を本拠地とした。南北朝期には肥前国の波多氏領となっており、永和三年(一三七七)三月一六日「三池本郷内波多下野守并有田跡号甘木」について公験を持って出頭するよう今川了俊から波多有浦(祝)に命じられている(「今川了俊召文」有浦文書/南北朝遺文(九州編)五)


甘木村
あまぎむら

[現在地名]御船町高木たかき

西は上六嘉かみろつか(現嘉島町)、東は下高野しもたかの村に接し、加勢かせ川の支流矢形やかた川が北流する。字高見原たかみはらに縄文後期の甘木貝塚と、縄文中期・後期、古墳時代の複合遺跡である甘木遺跡がある。甘木庄の遺名を引く。字北屋敷きたやしき、通称城山じよんやまに甘木城跡がある。味木氏一族の城と伝えられ、堀切・空堀・土塁が残り、天文八年(一五三九)三月二九日銘の阿弥陀三尊板碑がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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