馬場町(読み)ばばちよう

日本歴史地名大系 「馬場町」の解説

馬場町
ばばちよう

[現在地名]鶴岡市馬場町・泉町いずみまち若葉町わかばまち

鶴ヶ岡城郭内、二の丸大手門東側と南側の一部を占める家中屋敷地。東側は北東流するうち川で郭外と隔てられ、北から五日町いつかまち木戸・三日町みつかまち木戸・十日町とおかまち木戸がある。北は内川と溜池をつなぐ東西の堀があり、東に荒町あらまち木戸、西に代官だいかん町への木戸が設けられていた。町名は藩の厩と馬場があったことによる。「大泉掌故」は北の代官町口より南の十日町口に至る南北の通りを馬場町とよぶとしているが、この通りに交差する東西の通りに沿った馬場町よこ丁のみを馬場町とよび、また五日町口・三日町口・十日町口を含んで馬場町と総称することもあったとみられる。最上氏時代には町人町七日なのか町・上下両さかな町などがあったが、酒井氏入部後の城郭拡張により南方の現在地へ移転、その跡地に町割がされた(同書)。延宝六年(一六七八)の城下絵図には南北の通りに侍町とのみみえ、ほぼ中央西側に厩がある。同年の御家中仮名付(鶏肋編)には長馬場とあり、御使番二五〇石牧角右衛門など三名の屋敷があった。元禄九年(一六九六)の城下大絵図に馬場町とみえ六二間。文政一〇年(一八二七)書写の御家中拝領屋敷帳面(同書)では牧清右衛門など三名と八大夫衛士が記される。


馬場町
ばばちよう

[現在地名]宇都宮市馬場通ばばどおり一―三丁目・二荒町ふたあらまち曲師町まげしちよう

宇都宮大明神(二荒山神社)の南門前に位置し、門前から南へ続く通り(大明神通)と、門前から西に向かう通り(西馬場町)に分れる。奥州街道筋の日野ひの町から北へ折れて門前に至り、西へ折れて駒止め柵を境に鉄砲てつぽう町・杉原すぎはら町に続く。北がやや高く、南にかがみヶ池がある。鎌倉・室町期より宇都宮大明神の門前町。文明九年(一四七七)正月一一日の宇都宮正綱の署名のある日光山並当社縁起絵巻(愛媛県宇都宮神社蔵)によれば、町の北側明神境内地(のちの西馬場)には大御堂がみえる。松平忠弘時代の城下図(東大史料編纂所蔵)によれば、南北通りに馬場町、東西通りに西馬場町とあり、南北通りの中央西に社家玉生権大夫屋敷、東に東勝とうしよう寺跡地の文殊院・下ノ宮がある。


馬場町
ばばちよう

[現在地名]八幡市八幡馬場

南北に通る大道おおみち沿いの今田いまだ町から神原かみはら町までの一四四間両側の町並(八幡宮境内古図「石清水八幡宮史料叢書」所収)。町中央の西方には大きく善法律ぜんぽうりつ寺およびその南に善法寺家があり、町の中ほどから善法寺家門前までの横町を茶畑ちやばたけ町とも称していた(同古図)

安居頭人記(「男山考古録」所引)によれば、馬場町には石清水いわしみず八幡宮の安居頭人として宝徳四年(一四五二)の馬場小綱恵念、寛正五年(一四六四)馬場恵念の子尊円、延徳四年(一四九二)馬場帯刀、明応四年(一四九五)楠葉方禰宜の馬場兵庫之助の名がみえ、馬場姓の石清水八幡宮社士が多かった。


馬場町
ばばんちよう

[現在地名]静岡市馬場町・西草深町にしくさぶかちよう中町なかちよう富士見町ふじみちよう

駿府城の北西、城下縦筋(縦町)第一行の両側町。南西は四足よつあし町、北東はみやさき町に続く。町の中央から西へ向かって横筋(横町)第九行の通りが延びる。南部西側の町裏に時宗安西あんざい寺がある(以上、町方絵図)。町名は徳川家康駿府在城時に浅間社(静岡浅間神社)前に馬場があったことに由来するという(駿国雑志)。天正一五年(一五八七)三月七日の駿府浅間社新宮神主親貞注進状写(駿河志料)に「馬場之町」がみえる。当町の太田家は戦国期以来の有力者といわれ、近世初頭より駿府糸割賦仲間の一員で、延宝四年(一六七六)太田次郎右衛門が長崎貿易の利益銀三四〇目の配分を受けた(「長崎貨物銀拝領請取帳」県立中央図書館所蔵文書)


馬場町
ばばまち

[現在地名]会津若松市馬場町・馬場本町ばばもとまち中央ちゆうおう一―二丁目

馬場町口郭門を出て北に行く通りで、長さ五町三〇間余・幅五間。蘆名氏時代は郭内本一之ほんいちの丁の地に犬追物の馬場があり、当町が馬場に続いていたので町名になったという(新編会津風土記)。大永四年(一五二四)七月一三日条に「黒川馬場町焼矣」とある(会津旧事雑考)。「伊達天正日記」天正一八年(一五九〇)三月二二日条によれば、「馬場・大町之しゆ」が伊達政宗に伺候している。


馬場町
ばばのちよう

[現在地名]上田市中央ちゆうおう三丁目

海野うんの町・はら町・町・鍛冶かじ町の四町によって方形に囲まれ、中央部には蛭沢ひるさわ川が流れる。真田氏時代、馬場があったと伝える。

仙石氏が元和八年(一六二二)小諸こもろより移封、侍屋敷として町割が行われ、馬場は新たにやり町(のちに房山ぼうやまに変わる。現上田市中央五丁目)北方の矢出沢やでさわ川近くに移された(上田市史)


馬場町
ばばちよう

[現在地名]八戸市馬場町、内丸うちまる一丁目の一部

八戸城の南に位置する武家町。東と北は堀端ほりばた町、西はつつみ町、南はばん町に接する。中央を南西から北東に街路が通り、両端は鉤形となる。文久年間(一八六一―六四)八戸御城下略図に「馬場」とあり、諸士名がみえる。街路中央に土手がみえ、東端の堀端町境に若宮、東寄りの南に鐘撞堂がある。町名は城内の内馬場に対し、外馬場が置かれたことによる。同絵図でも八人居住のうち四人が馬責である。

馬場は藩士の馬術練習場として元禄四年(一六九一)に完成したものといわれるが(八戸藩史料)、町名はそれ以前にみえ、八戸藩日記の寛文九年(一六六九)八月二七日条に「馬場町新屋敷割」とある。


馬場町
ばばんちよう

[現在地名]飯田市馬場町

たに川の北岸、伝馬てんま町の東側に位置する。

飯田藩の馬場があったことから起きた町名といわれる。江戸えど町や仲之なかの町と同様、武家屋敷のあった町で、馬場町小路ともよばれた。天和(一六八一―八四)の頃に谷川に面した傾斜地で、越前の人が漆栽培をしたといわれ、寛文一二年(一六七二)堀氏移封以後は煙草栽培が行われたと伝えられる。


馬場町
ばばちよう

[現在地名]平野区平野上ひらのうえ町一丁目など

平野郷ひらのごう町を構成した七町四散郷の一町。街衢の西北部にある。東は泥堂でいどう町に接し、馬場口から奈良街道に通ずる。寛政九年(一七九七)の高は四〇七石、古軒役は四八軒(「雑記」土橋家文書)。宝永三年(一七〇六)の竈数は二一二・人数八一一、享保一七年(一七三二)の竈数二〇一・家数一三八・人数八一〇、天保七年(一八三六)には竈数一〇九・人数四九六(各年「覚帳」杭全神社蔵、ただし寺社・坂上家関係のぞく)


馬場町
ばばのちよう

[現在地名]鳥取市馬場町

江崎えざき町の南にある武家屋敷地。東側の山鼻に沿って日香にちこう寺・大隣だいりん寺・芳心ほうしん寺が並ぶ。町名の由来について、「鳥府志」によれば元文年間(一七三六―四一)頃御乗役山田庄蔵が居住、馬に乗っていたことによるという。日香寺の地に寛文五年(一六六五)まで学成がくじよう寺があった。享保一四年(一七二九)には当町に夜番廠が建てられている(因府年表)


馬場町
ばばちよう

[現在地名]洲本市本町ほんまち一丁目・海岸通かいがんどおり二丁目

城下うち町東部にあり、洲本城山下居館前の堀端から北へ延びる武家地御門ごもん筋の北に続く南北の通り。北端は上大工かみだいく町の東西の通り。山下さんか一八町の一。中ほど東側に洲本三社の一、洲本明神社(現洲本神社)がある。同社は諏訪明神を祀り、明神さんの呼び名がある。往昔海浜の砂洲の上に祀られていたことから洲本の称が発生したという。


馬場町
ばばちよう

[現在地名]大垣市馬場町

大垣城の南西に位置する士屋敷地域。北は西長にしなが町、東と南はふな町に接する。俗に本馬場ほんばばともいう。もと切石きりいし村のうちで、寛永期(一六二四―四四)に馬場の両側に藩士の屋敷ができ侍町となったとされ、町名は乗馬訓練の馬場があったことによる(新修大垣市史)。享和四年(一八〇四)の藩士家並帳(林文書)には本馬場とみえる。家数は元禄期(一六八八―一七〇四)三九、寛延三年(一七五〇)二三、宝暦三年(一七五三)三五(新修大垣市史)


馬場町
ばばのまち

[現在地名]米沢市城南じようなん一―三丁目

北谷地小路きたやちこうじ町の南に位置する上級家臣屋敷町。「米府鹿子」には中谷地なかやち小路とみえる。東西の道に沿う両側町。享保一〇年(一七二五)の城下書上によれば町の長さ三町三四間・道幅四間・屋敷数二六。米沢藩の馬場は二の丸馬場のほか城北の白子しろこ大明神東側にあった。当町は道路を利用して上級武士の子弟が乗馬練習をしたことからの町名という。


馬場町
ばばまち

[現在地名]能代市檜山字霧山下きりやました

多賀谷氏居館の西側で、しん町との間にある侍町。多賀谷氏家臣(陪臣)が住んだ。享保一三年(一七二八)檜山一円御絵図(秋田県庁蔵)にはないが、天保二年(一八三一)檜山絵図(秋田県庁蔵)には居館の西側が馬場一五〇間となっており、その南側に屯馬とんばと称する溜場がある。


馬場町
ばばちよう

[現在地名]長野市松代町馬場町

城下の南にあり、西条にしじよう村への通路にあたる。士族町に属する。古く海津かいづ町と称したが、道路が特に広く造られて、馬場があり上の馬場うえのばばとよばれていた。道路の延長二〇〇メートル。入口に厩のあったこともある。


馬場町
ばばまち

[現在地名]松任市馬場町

本町ほんまち(北陸街道)の南側に並行する後町うしろまち通西端に位置し、東は博労ばくろう町に続く。天明五年(一七八五)の町絵図(松任市立博物館蔵)に町名がみえ、北側は町家、南側は百姓家が描かれている。


馬場町
ばばちよう

[現在地名]西尾市馬場町

西尾城の北東に位置する。馬場町の開発は寛文二年(一六六二)とされ(中町三浦氏家系)、以前はこの辺りを市場いちばといった(西尾草創伝)というが、正保二年(一六四五)より万治二年(一六五九)までに描かれたと推定される参州西尾城絵図之覚に、すでに馬場町一帯は侍屋敷で、長さ一七八間の馬場が南北に設けられている。


馬場町
ばんばちよう

[現在地名]東区馬場町・大阪城おおさかじようもり宮中央みやちゆうおう一―二丁目

明治一二年(一八七九)成立した町。江戸時代の大坂城の本丸・二ノ丸の全域を占める地域で、北と東は外堀外側の石垣線、南と西は外堀の外縁にあった芝地を含む。


馬場町
ばばちよう

[現在地名]西宮市馬場町

西宮神社の東、山陽道の一本北の道に沿い、南は釘貫くぎぬき町。寛文元年(一六六一)の西宮町検地帳写(西宮市役所蔵)に町名がみえ、住民七人の名を記す。


馬場町
ばばちよう

[現在地名]奈良市馬場町

北風呂きたふろ町の北西に所在。「奈良曝」に「町役二十軒。いにしへ南都町中の支配を筒井順慶はからひとして、一族の内、筒井左馬之助を椿井町にすへ置し時の馬場の跡なり」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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