田井郷(読み)だいごう

日本歴史地名大系 「田井郷」の解説

田井郷
だいごう

永徳三年(一三八三)四月一九日の梶原貞景打渡状(塙文書)に、大内おおうち庄のうち高橋三郎跡として「高橋郷同庄内田井郷并葛嶋村」など半分とみえ、大内庄内で、同庄高橋たかはし郷を名字の地とする高橋三郎の所領であった(→大内庄。しかし、小山義政の乱にくみした高橋三郎は、当郷などの所領をすべて没収され、同三年一月二八日、その所領の半分が関東府より祈祷料所として鹿島神宮(現茨城県鹿島郡鹿島町)に寄進され(「関東公方足利氏満寄進状」鹿島神宮文書・嘉慶元年一一月二六日「大禰宜中臣治親譲状」塙文書)、残り半分は公方料所となったと推定される。永徳三年四月一九日、現地が鹿島神宮大禰宜中臣治親に引渡されたが(前掲梶原貞景打渡状)、本主高橋三郎が立帰って押領したため、治親は関東府に訴え、五月二三日押領者を退け、下地を中分して一方を社家に引渡すことが命ぜられた(「上杉憲方遵行状」鹿島神宮文書)。六月二九日、下地中分が行われ、当郷は「田井山峰之道」を境として東西に分割され、東方の東田井ひがしだい(現芳賀郡益子町)が治親に引渡された(「宍戸基宗代大蔵種光請文」同文書など)


田井郷
たいごう

和名抄」にみえるが、諸本ともに訓はない。現八尾やお市に田井中たいなかを町名とする地域があり、「河内志」「大阪府全志」はともにこの地を郷域とし、「大日本地名辞書」は同地を中心とした、明治二二年(一八八九)成立の志紀村(現八尾市)柏原かしわら(現柏原市)を郷域とする。これらの比定は妥当で、付替え以前の大和川が玉串たまくし川・長瀬ながせ川に分流する地域にあたる。


田井郷
たいごう

「和名抄」高山寺本は「太井」、東急本は「多井」の訓を付す。坂上系図には「姓氏録曰」として山木直を祖とする田井忌寸を載せる。「延喜式」神名帳に「多為タイノ神社」がみえる。


田井郷
たいごう

「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、タイであろう。「出雲国風土記」に記載がなく、郷域の比定に史料を欠くが、多禰たね郷の東とみて現吉田よしだ村とする説がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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