日本歴史地名大系 「田神社」の解説
田神社
くしだじんじや
主祭神は大幡主神・天照大御神・素戔嗚命で、旧県社。現在は境内西方を
〔創建〕
「続風土記」は櫛田社は天平宝字元年(七五七)の創建、祇園社は天慶四年(九四一)藤原純友追討の際に小野好古が勧請したとし、天照大神宮の創祀は不詳とする。また初め社殿は南面し、社前を大宰府往還路が通っていたという。暦応三年(一三四〇)四月二七日の櫛田宮鐘銘(東海一集)には持統天皇の時代の創建とある。永仁三年(一二九五)一〇月四日の鎮西奉行使者注進状写(肥前櫛田神社文書/鎌倉遺文二五)によると、博多櫛田神社に置かれている剣は弘安七年(一二八四)託宣により「本宮神埼櫛田宮」からモンゴル征討のため送られたとあり、当社は肥前
〔中世〕
前掲櫛田宮鐘銘によると、鎮西探題北条随時は当社を崇敬して社殿を再興、祭礼および祭器などは当社を信仰する博多の人々が復旧、梵鐘も元応元年(一三一九)七月に鋳造されている。しかし正中―建武(一三二四―三八)の大乱期に再び被災したといい、正慶二年(一三三三)三月一三日には鎮西探題討伐のため挙兵した菊池武時(寂阿)らが「松原口・辻堂」から押寄せ、「早良小路」を下って「櫛田浜口ニ打出」ている(博多日記)。当社は海浜に近く、また鎮西探題館が近隣に所在していたようである。なおこのとき寂阿が櫛田社の前を通ろうとしたが、神意によるものか馬が進めなくなり、寂阿は怒って神殿に矢を射かけて通ったといい、このことがのち寂阿らに凶事をもたらしたという(太平記・九州軍記)。一方で建武三年五月一五日足利尊氏・直義は櫛田の宮が二人を守護するとの吉兆を得たとされており(梅松論)、この頃当社は足利方に与同していたのであろう。
田神社
くしたじんじや
田神社
ひえだじんじや
田神社
ひえたじんじや
旧東海道の西方にあり、祭神天照大神など。旧郷社。「延喜式」神名帳に登載される
田神社
くしたじんじや
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報