島田村(読み)しまだむら

日本歴史地名大系 「島田村」の解説

島田村
しまだむら

[現在地名]角田市島田

亘理わたり丘陵の付根西麓にあり、北は尾山おやま村、西は枝野えだの村。東は影蔵坂(現小斎峠)を経て亘理郡真庭まにわ(現山元町)のれ峠坂(現高瀬峠)を越え同郡高瀬たかせ(現同上)へ通じる。大永五年(一五二五)一一月一五日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)に「志ま田の郷」「きたしま田の郷」「みなミしま田」とみえ、阿部美濃よりの買地北島田郷内「八郎五郎屋敷五段(中略)そうりやうてん一段一宇」、飯田の方より譲りの同郷内「田はた七段、なしの木田三たん」、しやうつかいの方よりの買地島田郷内「たしま屋しき」、大橋孫四郎よりの買地北島田郷内「たてのうしろ田一たん」等、岩崎七郎左衛門よりの買地同郷内「たて寺やしき、同はたけかちやしき」等、桑島太郎左衛門よりの買地南島田内「や平太郎在家の内、えのにし四段」等が田手石見の太方に安堵されている。また南東石川口いしかわぐち伊具いぐ東根ひがしねとしてみえ、坂本石見よりの買地「との内在家一宇」が安堵されている。南北島田郷・石川口の中小武士の手作地・屋敷をも含む所領が売払われ、田手氏のもとに集積されていたことを示す。天文七年(一五三八)の段銭古帳では、南島田郷は一四貫三〇〇文、北島田郷は一六貫六八〇文、石川口は四貫八一五文とある。同一二年一〇月七日には伊達稙宗から遠藤孫左衛門に南島田一郷が与えられた(伊達正統世次考)

島田村
しまだむら

[現在地名]養老町高田たかだ高田馬場町たかだばんばちよう

牧田まきだ川の中流右岸に立地し、村の南部は金草かなくさ川の最上流域になっている。両川はほぼ東流して烏江からすえ村域で杭瀬くいせ川に注ぎ、やがて揖斐いび川に合流する。牧田川沿いに九里半街道が通り、島田・高田・下高田の三集落からなる。中世は島田郷・高田郷として多芸たぎ庄内であった。烏江湊などの濃州三湊の発展とともに当地も賑い、高田は町場を形成した。慶長五年(一六〇〇)九月徳川家康は島田村ほか近隣の四ヵ村に禁制を出しているが(「徳川家康禁制写」藤田カツ氏所蔵文書)、これを受けた同年一〇月には間宮彦次郎が「嶋田町中」宛に町掟を出している(「間宮彦次郎嶋田町掟写」大橋文書)。そのなかに諸役免許・国質郷質・楽市の条項がみえ、楽市場であったことが知られる。同一五年三湊の幕府代官であった徳永寿昌(高須城主)が烏江湊や栗笠くりがさ湊などに出した定書(「徳永寿昌条書」吹原文書)にも高田とみえ、どの湊の問屋で荷を扱うかは荷主の自由であることなどが記される。

島田村
しまだむら

[現在地名]徳島市北島田町きたしまだちよう一―三丁目・中島田町なかしまだちよう一―四丁目・南島田町みなみしまだちよう一―四丁目・鮎喰町あくいちよう一―二丁目・北矢三町きたやそちよう四丁目

矢三村の西、北東流する鮎喰川の下流右岸にある。村名は川や水路に囲まれた島状の田地が多かったことに由来するという(加茂名小史)。中世には安楽寿あんらくじゆ(現京都市伏見区)領名東庄の内に含まれていたとみられ、八幡神社の東隣に大屋敷おおやしきの通称が残り、島田左近次正を城主とする島田城があったと伝承される(「故城記」「阿波志」など)。また近年の発掘調査により、中島田遺跡などが発見され、鎌倉期後半から南北朝時代に広く交易にかかわった集落が存在したことがわかった。

慶長二年(一五九七)の分限帳に島田とみえ、六二石余が寺沢弥次右衛門、一〇〇石が稲富清八郎、一六石余が益田勝兵衛、五〇石が平野与八郎、一一石余が河野源次郎、五〇石が日比野久右衛門、四六石余が田中九右衛門、四〇石が太田孫左衛門、四〇石が太田彦兵衛、四〇石が梯藤左衛門(人名はあるいは誤りか)、二〇石が梯藤左衛門(人名はあるいは誤りか)、一〇〇石が稲田忠兵衛、八石余が青山助次郎、一〇石が梯三蔵の各知行分。

島田村
しまたむら

[現在地名]光市大字島田・新町しんまち島田市上町しまたいちかみまち島田市下町しまたいちしもまち新幸しんさいわい

北西は三井みい、西は浅江あさなえ、北東は立野たての、南東は光井みついの各村と接する。鶴羽つるば山の南西麓に位置し、海に面する。島田川が村の西側を南流、村域の約半分は島田川のデルタ地帯で田畑を造成している。近世、熊毛宰判に属した。

御書御判物控(藤井家文書)の康永四年(一三四五)に「島田庄」とみえる。享禄五年(一五三二)中国九州御祓賦帳に「しまたの東寿坊」と記す。

筑紫紀行」に「光井・野原などいふ村々を過て、島田の駅に至る、茅屋勝にて百軒計あり、此駅の出口に大なる川あり、島田川といふ、室積より此辺まで、道に並立る松ども、木振よく茂りあひたる、此間より彼の海山の透て見ゆるなど、すべて佳境妙景にて、舞子の浜によく似たり、仮橋にて島田川を渡る、川向は浅なひ村なり」とある。

島田村
しまだむら

[現在地名]飯田市松尾まつお

現飯田市の北東部に位置し、天竜川とその支流まつ川の沖積地と、段丘上の平地とからなる。古代は「和名抄」所載の輔衆ふす郷に属したものと推定され、やがて伊賀良いがら庄の内となった。近世は一貫して飯田藩領。村高は正保四年(一六四七)が二千一三石余(信濃国絵図高辻)

前方後円墳八基をはじめとして多数の古墳があり、下伊那では開発の最も古い地域の一つ。村の西方には建治三年(一二七七)開創のはとみね八幡宮があり、その南、段丘の突端には松尾小笠原氏の居城松尾城がある。その下段平坦部にも「じよう」「水城みさじろ」などの地名があり、松尾城と関係のある館跡であろうといわれる。

「島田」の文献上の初見は文明一一年(一四七九)の諏訪御符礼之古書で、諏訪社上社大祝諏訪継満らが島田に兵を出し、松尾小笠原氏と争っている鈴岡すずおか城主小笠原政秀を助けた記事である。

島田村
しまだむら

[現在地名]嬉野町島田

中村なかむら川の下流左岸の台地上に位置し、一志村の西にあたる。南対岸は八田はつた村とうえ村となる。小字名にうえ垣内がいとの垣内地名がある。字焼野やけのにある蛇亀橋じやがめばし遺跡から縄文晩期の住居跡と合口甕棺墓が出土。大森山の兄弟おおもりやまのおととい塚は同形同大の横穴式石室をもつ二基の後期古墳である。「五鈴遺響」などに長野氏被官の佐竹川北内匠助の居城という島田城跡がみえるが、所在地は未詳。

文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に村名がみえ、石高七二三・九石とある。元和五年(一六一九)和歌山藩松坂領と津藩領の入組地となり、松坂領の郷組は下ノ庄組であった。

島田村
しまだむら

[現在地名]小山市島田・東島田ひがししまだ

おもい川西岸にあり、一部飛地が東岸にある。南は渋井しぶい村、西は荒川あらかわ村。日光道中宿村大概帳小山宿の項では小山宿へ三〇町、壬生みぶ飯塚いいづか宿へ三一町とある。応永一二年(一四〇五)一二月二七日の旦那交名(米良文書)に「小山庄嶋田郷荒河侍従阿」とある。文明三年(一四七一)二月二三日の某安堵状(青木文書)に「小山庄嶋田郷義道坊職」とみえ、中泉惣大別当に安堵されている。天文五年(一五三六)と推定される一一月二七日の小山高朝伊勢役銭算用状写(佐八文書)によれば小山領上郷分のうちで役銭一〇貫文を負担していた。慶長年間(一五九六―一六一五)小山藩領、元和五年(一六一九)下総古河藩領となり、元禄七年(一六九四)幕府領。同一〇年宇都宮藩領、宝永七年(一七一〇)幕府領に復し、享保一一年(一七二六)からは旗本渋谷領。

島田村
しまだむら

[現在地名]坂戸市島田

石井いしい村の北にあり、北西は北東流する越辺おつぺ川を境に比企郡田木たぎ(現東松山市)、北は同川を隔てて同郡宮鼻みやはな(現同上)など。川越秩父道が南東から北西に通り、越辺川に渡場があった。田園簿では田三九〇石・畑二五〇石、旗本横田次郎兵衛領(三二〇石)・同横田甚右衛門領(三二〇石)。元禄一〇年(一六九七)川越藩領となったらしく、同一五年の河越御領分明細記では高六四〇石、ほかに一二〇石余とある。宝永元年(一七〇四)同藩領を離れ、旗本小幡領、幕府領などを経て化政期には川越藩領となり(「風土記稿」など)、慶応二年(一八六六)以降も同藩領(同三年「領分替引渡諸役用向筆記帳」安野家文書)

島田村
しまだむら

[現在地名]中津市島田・丸山町まるやまちよう蛭子町えびすまち宮島町みやじままち豊田町とよだまち

中津城の南東、島田神社裏手が村の中心。承久二年(一二二〇)の宇佐宮宿直番闕夜の大家おおえ郷名主に「元門二日二ケ夜 卅疋」があり、元門もとかどは現在島田の小字として残る(同年七月日「宇佐公仲下文」到津文書)。享禄四年(一五三一)一〇月一二日の永弘通忠小油銭請取注文(永弘文書)に「六百文 しまた又四郎方」とあり、同人が宮時みやとき庄の散田を取得していたらしい。天正一〇年(一五八二)の蠣瀬新介の知行地に「三町七段十代 嶋田名」とある(同年八月一二日「蠣瀬新介知行坪付」蠣瀬文書)

江戸時代は在会所が置かれ、島田村庄屋が定詰庄屋を勤めていたが、後期には二人で勤めるようになり、給米一人四石ずつが支給された(「十一組へ申達覚」野依家文書)

島田村
しまだむら

[現在地名]龍野市龍野町島田

揖保いぼ川を挟んで北龍野村の東に位置し、揖東いつとう郡に属する。東の衣笠きぬがさ山の山裾を流れる山根やまね川一帯には湿地帯が広がる。文禄四年(一五九五)五月吉日の揖保川井堰絵図(岩見井組文書)に揖保川左岸から取水する「しま田井」がみえる。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代の領主の変遷は寛文一二年(一六七二)龍野藩領となるまでは北龍野村と同じ。延享四年(一七四七)収公され、三卿の一橋領となり幕末に至る(「一橋家領知高帳」一橋徳川家文書、旧高旧領取調帳など)

島田村
しまだむら

[現在地名]足利市島田町

矢場やば川の北岸の平地に位置し、北は南友之郷みなみとものごう。天正一七年(一五八九)と推定される丑四月一一日の北条氏照充行状写(渋垂文書)によると、「嶋田之内」の二〇貫文の地が渋垂しぶたれ郷を本貫地とする渋足(渋垂)修理亮に宛行われている。戦国末期に足利一帯が小田原北条氏の支配下に入っていたことによる。栂尾恵果和尚絵巻(福島県正福寺蔵)の奥書に「天正十八年庚寅五月九日(中略)野州足利庄嶋田郷覚来寺」とみえるが、同寺は村の中央部にある真言宗豊山派覚本かくほん寺の誤記であろうか。

島田村
しまだむら

[現在地名]城南町島田 島田

浜戸はまど川が蛇行する流域沿いの水田地帯にあり、北は赤見あかみ村、東はいかり村、南は六田ろくた村、西は西木さいぎ村と榎津えのきづ(現富合町)に接する。元応二年(一三二〇)六月一日の後家慈妙田畠屋敷中分状案(相良家文書)に「嶋田里」とみえ、中世には隈牟田くまむた五郎丸ごろうまる名の一部で、この年、惣領後家慈妙方と領家方との間で分割された。同中分状案によれば「一所嶋田里十二坪 一所同里廿四坪藤内屋敷 一所同里卅五坪 一所同里卅六坪屋敷」とある。一二・二四・三五・三六坪に屋敷・畠があり、浜戸川の自然堤防上の微高地にあったと考えられ、かつて条里が施行された地域であった。「嶋田里」は、字京免きようめん居屋敷いやしき前田まえだ堂免どうめん長橋ながはし壱町田いつちようだの地域に、碇村の一部(字免戸町・北折)を含む領域ではなかったかと推定されている(城南町史)

島田村
しまだむら

[現在地名]栃尾市島田

塩谷しおたに川上流の東側山麓の小平坦面に立地。東は山葵谷わさびだに村、北は塩谷川を隔て滝之口たきのくち村、南は本所ほんじよ村。近世は島田村と島田八兵衛しまだはちべえ新田の二村に分れ、家立ちは本村に属したが、新田村は独立して存在した。当村庄屋家の河野家が所蔵する「鎮守寺社春秋祭典備忘録」に記された古老の口伝書によると、源義経の家臣笹木(佐々木)四郎の家来勝沼元衛門(元右衛門)の子孫が草分と伝える。勝沼マキでは元右衛門を元祖としている。山葵谷遍照へんじよう院の過去帳にも勝沼家は当村最古の家として出てくる。

島田村
しまだむら

[現在地名]桑名市島田

現桑名市の南西部にあり、とも村の南に位置する。南は丘陵地で、朝明あさけ(現四日市市)に接する。村内に櫛田くした神社があり、「五鈴遺響」では、朝明郡の延喜式内社の櫛田神社であるとしている。また当村は古くは朝明郡に属していたともいわれる(員弁雑志)。「外宮神領目録」には「島田御厨三石」とある。中世の島田城跡があり、「布留屋草紙」では「島田兵庫領 永禄十一年織田信長誅之」とある。

江戸時代の前期・中期は桑名藩領、文政六年(一八二三)武蔵おし(現行田市)藩領、天保一四年(一八四三)信楽しがらき(現滋賀県)代官支配の幕府領、次いで嘉永元年(一八四八)笠松かさまつ(現岐阜県)郡代所管、同七年再び忍藩領に復する。

島田村
しまたむら

[現在地名]大鰐町島田しまだ

西流する島田川中流域に位置し、東に支村の新田しんでん、西に早瀬野はやせの村がある。

貞享四年(一六八七)の検地帳に嶋田村とみえ、田畑屋敷合せて八町六反五畝二八歩、村高三七・八八五石とある。うち田方は二町一畝一七歩、一四・六〇二石、上田から下々田まで設定され、下田が一町三反四畝歩、九・三八石であり、畑方は六町六反四畝一一歩、二三・二八三石、上畑から下々畑までで、下畑が四町五反八畝一〇歩、一三・七五石とあり、そのほかに開発可能な田地が五町三反六畝六歩とみえ、漆木は村中で二本だけ栽培され、留山は三ヵ所ある。

島田村
しまだむら

[現在地名]岡山市島田本町しまだほんまち一―二丁目・西島田町にししまだちよう中島田町なかしまだちよう一―二丁目・東島田町ひがししまだちよう一―二丁目・下石井しもいしい一丁目

下出石しもいずし村の西にあり、西は高柳たかやなぎ村、南は大供だいく村。枝村の新島は享保一三年(一七二八)の成立という(備陽記)。寛永備前国絵図に村名がみえ、高六〇四石余。「備陽記」によると田畑三四町五反余、家数四九・人数二四五。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高一千三九石余、蔵入と家臣一一名の給地。

島田村
しまだむら

[現在地名]一宮町島田

揖保いぼ川の右岸、同川とその支流岡城おかじろ川の合流点に位置し、北は安黒あぐろ村。洲田村とも記されたようで、明治六年(一八七三)開設の簡易小学校名は洲田小学校であった(兵庫県庁所蔵文書)。安黒村庄屋覚書(安黒区有文書)や神戸郷諸事覚書(糺家文書)によると、寛文三年(一六六三)普請奉行内田加兵衛や代官神部小右衛門らの立会のもとに神戸かんべ村から分村したというが、すでに正保郷帳で田方五六石余・畠方四一石余となっている。

島田村
しまだむら

[現在地名]八千代市島田

桑納かんのう村の北に位置。中世は臼井うすい庄のうち。元徳三年(一三三一)九月四日の千葉胤貞譲状(中山法華経寺文書)に臼井庄「島田村内又三郎名段、在家壱宇」とみえ、当地などが中山法華経寺日祐に譲られている。応永四年(一三九七)一二月二三日には、鎌倉公方足利氏満が日尊より日暹に譲られた臼井庄神保じんぽう郷のうち島田村など同寺領の安堵を管領斯波義将に取次いでいる(「足利氏満挙状」同文書)。同二七年一二月二一日には千葉兼胤が当地などを日暹に安堵している(「千葉兼胤安堵状」同文書)。文禄三年(一五九四)七月二〇日の法華経寺四院主連署回状(同文書)に「島田 福仙房」とある。慶長七年(一六〇二)八月二日の検地帳(信田家文書)には西郷神保之内島田村とあり、反別は田六町五反余・畑屋敷一町六反余。

島田村
しまだむら

[現在地名]豊中市名神口めいしんぐち一―二丁目・庄内栄しようないさかえ町一―二丁目

上津島こうづしま村・今在家いまざいけ村の東、穂積ほづみ村の南にある。応永三二年(一四二五)三月六日に鋳造された「摂津国椋橋東庄内島堂勧進寺」の陰刻銘をもつ鐘が、現兵庫県尼崎あまがさき市の如来院にある。島堂村が応永年間には存在し、村民の信仰の中心として勧進かんじん寺が建立されていたことを示す。寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳に島堂村とみえ、元禄郷帳に「古は島堂島田村」とあるので、江戸時代初期まで島堂村と記していたことが明らかである。慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図には「島戸村」がみえるが、単独の高は不明。元和初年の摂津一国高御改帳では「椋橋之庄十ケ村之内」三千四五一石余に含まれる。

島田村
しまだむら

[現在地名]婦中町島田

井田いだ川の中流左岸と山田やまだ川の支流赤江あかえ川右岸の間に位置し、北は高日附たかひづき村、南西は小倉おぐら村。高日附村の枝村で、かつて井田川が大坪おおつぼ村地内を流れていた際、井田川と余川よかわ川の間に存在して島状になっていたところから名付けられたという。また四方の村よりも高いことがこのことを証明している(婦負郡志)。正保郷帳では熊野道ゆやんど村とともに小倉村の内と記される。承応四年(一六五五)の村御印では草高二七六石余(うち蔵入六斗余、残りは富田右衛門尉の給地)、免三ツ五歩三厘(村々御印物等書上)

島田村
しまだむら

[現在地名]中之島村島田

信濃川右岸の自然堤防上、上流は関根せきね村、下流は長呂ながろ村。文禄四年(一五九五)六月一一日の直江兼続黒印状(上松文書)出雲田いずもだ庄一五ヵ村の一として村名がみえる。慶長三年(一五九八)頃の新発田御領内高付帳(新発田市史資料)では四一三石三斗八升。同一〇年の給知方村々高目録(同資料)には毛付九六石六斗余・荒一一二石九斗余とみえ、過半が荒廃田である。

島田村
しまたむら

[現在地名]安来市島田町

細井ほそい村・黒鳥くろどり村の東に位置し、北は中海に臨む。北半の西側も中海に面していたが、現在は干拓され、穂日島ほひじま町となった。山陰道が通る。北の地先海面にまつ島・かや島が浮び、松島は「出雲国風土記」意宇おう郡に「子島 既に磯なり」とみえる「子島」とされる。萱島は記載がない。なお同書は「子島」の次にあわ島を載せるが、粟島は現在鳥取県米子市に属している。当地の字須崎すざきにちょうづか横穴墓があり、県下では例の少ない陶棺が出土している。正保国絵図に村名がみえ、明暦四年(一六五八)の検地帳(田方)によると高二四二石余、うち引高一八石余(九石余は当検地引高)、残高二二四石余。

島田村
しまだむら

[現在地名]猪苗代町磐里いわさと

堤崎つつみざき村の西に位置し、川西組に属した。かつて長瀬ながせ川がこの辺りを流れていた頃、当地が同川の中洲であったのが地名の由来と伝える。また地内に湖沼が多いのも(近世には二十数個、現在は埋立てられて数個)その名残であるという(新編会津風土記・猪苗代町史)。建仁二年(一二〇二)長尾帯刀が当地に塁を築いたという(会津年表)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では猪苗代郡のうちに島田とみえ、高四二五石余。享保三年(一七一八)には高六一五石余、家数三七・人数一五五、馬三四(「留帳」小林家文書)。「新編会津風土記」によると家数二一。慶応四年(一八六八)には当地の産物として振袖豆があげられている(猪苗代郷土誌稿)

島田村
しまだむら

[現在地名]天白区天白町島田・大根おおね町・御前場ごぜんば町・高坂たかさか町・西入にしいり町・ひとやま山根やまね町・山郷さんごう町・土原つちはら

北西部を天白川に区切られ、南は野並のなみ鳴海なるみ(現緑区)に接する。天白川南東の丘陵一帯には、鳴海・島田古窯跡群がある。寛文一一年(一六七一)の家数四四、人数二一九(寛文覚書)。天保村絵図によれば、村中央に集落が開け、東に枝郷の池場いけば島、西に同じく菅田すげた島があり、山裾の弥治右池から出た地蔵川が村内を通って天白川に注ぐ。

島田村
しまだむら

[現在地名]鳳来町愛郷あいごう

標高七五二・三メートルの竜頭りゆうず山の南側斜面にあり、南は塩瀬しおせ村、西は木和田きわだ(現作手村)に接する。島田神社の北に続く現字坂角さつかく笹の根ささのねにわたる山の緩やかな傾斜地に戦国期の城跡がある。三河菅沼氏の嫡流菅沼伊賀守貞行の居城(寛政重修諸家譜)で、天正元年(一五七三)奥平貞能が徳川氏に通じ、作手の亀山つくでのかめやま城を退去した時、武田氏の追撃を受けた。

島田村
しまだむら

[現在地名]余目町島田

常万じようまん村の南西にある。地名は、道満どうまん沼跡の湿地中の微高地(シマ)に開かれたことにちなむといわれる(島田村誌)。寛永一八年(一六四一)の開村とされ(八栄里村誌)、はじめ彦次郎新田ひこじろうしんでん村と称され、荒興屋あらこうや村の肝煎佐藤彦次郎の開発とされる(島田村誌)。慶安二年(一六四九)以降松山藩領。承応四年(一六五五)の田尻余目藤島組午御成ケ納土目録(松山町資料館蔵)彦二郎ひこじろう新田村とみえ、六二石余。

島田村
しまだむら

[現在地名]倉吉市福光ふくみつ

国分寺こくぶんじ村の南、北東流する国府こう川河岸の氾濫原にある。正保国絵図では同川右岸に記される。拝領高は三七二石余、本免四ツ五分。伊吹氏・多羅尾氏・荒尾将監の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では四〇〇石余、竈数二〇余、カウひめ天王がある。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四一七石余、竈数三六。藪役銀三匁六分・山役米六斗余を課されていた(藩史)

島田村
しまだむら

[現在地名]常澄村島田

涸沼ひぬま川の曲流部左岸にあり、川は村の東と西と南をめぐる。北は塩崎しおがさき村。「和名抄」の那賀なか郡にみえる志万郷の遺称地とされる。暦応三年(一三四〇)の沙弥頭阿石川成幹譲状写(石川氏文書)に「よしたのこほりしまたのむら」、また同年の「あきもと・しやうしゆん・ししやう連署避状写」(同文書)に「よしたのこほりひらとかうのうち、しまたのむら」とみえる。「新編常陸国誌」に「中世大掾氏吉田ノ一族、此地ニ住シテ島田氏トナル」とある。

島田村
しまだむら

[現在地名]富山市島田

熊野くまの川右岸に位置し、東は小中こなか村、飛騨街道が南北に通る。もと熊野川左岸にあったが、元和元年(一六一五)の大洪水で右岸に変わったという(神通川誌)。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高一四八石、免四ツ三歩、小物成は野役一八匁・鮎川役三匁・桑役九匁。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳によると、親村の最勝寺さいしようじ村の南四町にある枝村新田で高二七八石余。

島田村
しまだむら

[現在地名]小松市島田町・美原町みはらまち梅田町うめだまち

かけはし川下流右岸に面し、低平な沖積平野にあり、梯川の増水時にはしばしば洪水に見舞われる島集落の一つ。北は犬丸いぬまる村・松梨まつなし村、南西は梯村。慶長五年(一六〇〇)の浅井畷合戦の際、稲垣与右衛門の軍により御館おたち村とともに一村すべて焼払われた(山口筆記)。正保郷帳では高九九五石余、田方五三町余・畑方五町五反余。

島田村
しまだむら

[現在地名]印南町島田

切目きりめ川の最下流、左岸に広がる。北は切目川を挟んで西野地にしのじ村、東は西岩代にしいわしろ(現南部町)。「続風土記」は「島田の名、川の海口にありて島の形をなせるより起る」と記す。慶長検地高目録によれば村高四八〇石余、小物成一斗六升二合。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では田畑三九町九反余、家数八四で内訳は本役三〇、半役二〇、無役二九、庄屋・年寄各一など、人数四〇九、いさば一、網舟六、地引網二、打網一、狼烟場はあめふりガ岡に一ヵ所、鉄砲五、弓二。

島田村
しまだむら

[現在地名]牛久町島田

小野おの川と乙戸おつと川の合流点付近にあり、西は正直しようじき村。古代は「和名抄」記載の志万しま郷の本郷の地といわれる(新編常陸国誌)。江戸初期に鳥羽藩領となるが(寛文朱印留)、延宝八年(一六八〇)下総関宿藩領となる(寛政重修諸家譜)

島田村
しまだむら

[現在地名]米子市高島たかしま

高田たかだ村の北にある小村。日野川の西への転流と延宝(一六七三―八一)あるいは元禄(一六八八―一七〇四)の大洪水によって村絶えの状態になった時期もあると伝えられる。拝領高二二二石余、本免二ツ七分と低い。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二一二石余、竈数六。

島田村
しまだむら

[現在地名]上越市島田

島田下新田村の南、せき川左岸に位置。正保国絵図によると高九三三石余。天和三年郷帳では八〇〇石二斗余、ほかに新田分一三五石九斗余。用水はおもに十ヵ村じつかそん用水に依存、文化九年(一八一二)の水掛高七八五石二斗(笹井千代文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報