畑谷村
はたやむら
[現在地名]山辺町畑谷
簗沢村の南に位置する。白鷹山の北麓を占め、地内に東黒森山・西黒森山などのある山間の地である。村木沢村(現山形市)の枝郷上平から当村に入り大沼の南を回って本郷を通り、地内摂待を経て置賜郡中山村(現西置賜郡白鷹町)へ抜ける狐越街道の別路、中越道が通る。戦国期には最上氏領と伊達氏領の境に位置する要地であった。伊達輝宗日記(伊達家文書)天正二年(一五七四)五月四日条に「はたや」とみえ、輝宗は当地攻撃のために策略をめぐらしている。翌六月四日の夜、当地の方角に火の手が見えたのち、同七日になって輝宗は当地へ出陣、その日の夜は中山に引返している。集落北方の独立丘上には畑谷城跡がある。最上義光が慶長三年(一五九八)に置賜地方を領有することとなった上杉氏に対して、前線として築城したと伝え、最上義光分限帳(色川文書)には畑谷城主として江口五兵衛(高六千五〇〇石)の名がみえる。同五年の出羽合戦では、九月一一―一二日、上杉氏部将の直江兼続らによって攻撃をうけ、一三日には落城、城兵五〇〇人余が討捕らえられ、各地に放火された。兼続は当城に色部衆を置き、翌一四日には最上氏の居城を取囲んでいる(同年九月一八日「上泉泰綱条書」旧山形県史所収文書など)。なお落城の日が「十三夜の餅」の日にあたっていたため、当地では現在まで、この日は餅をつかない風習が残っている。
畑谷村
はたやむら
[現在地名]本荘市内越 畑谷
芋川東岸の平野部に位置し、東は山田村、西は芋川を挟んで内黒瀬村・大浦村、南は川口村・福田村と接する。
寛永二年(一六二五)の油利之内修理大夫様御知行御検地帳免定之目録写には村高四一二石二斗七升三合とあり納米二三四石九斗九升六合、免五ツ五分とある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図では高畑谷村三四四石、元禄一五年(一七〇二)の出羽国由理郡郷村高辻帳で四一二石二斗七升三合、天保郷帳では四八九石余と藩政期を通じて漸増する。
畑谷村
はただにむら
[現在地名]伊根町字畑谷
伊室村の西に位置し、近世初期は伊室村のうちであった。寛文九年(一六六九)に永井尚征が入部、丹後の領内の村を細分化した際、伊室村から分割、高付された。延宝三年郷村帳に「同畑谷」高五五・〇八石と記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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