畔屋村(読み)あぜやむら

日本歴史地名大系 「畔屋村」の解説

畔屋村
あぜやむら

[現在地名]広見町畔屋

大宿おおじゆく川中流右岸の小盆地状の村。東は清水せいずい村に接する。南西部の加町坂かまちざか(標高約二〇〇メートル)を経て、黒川くろかわ(現三間町)に通ずる山道がある。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「畔屋村 茅山有、日損所、小川有」と村名がみえ、干害を受けやすい村であった。天和元年(一六八一)の「宇和旧記」には畔谷村と表記される。宇和島藩領。

太閤検地石高は三五八石五斗で、耕地面積の比率は田七二パーセント、畑二八パーセント。寛文検地には石高が四九パーセントも急増し、水利の改善とともに耕地開発の進んだことが考えられる。「墅截」によると、村柄は「中」、田が「上ノ中」、畑は「中」とされ、水掛りも「中」となっている。


畔屋村
あぜやむら

[現在地名]柏崎市畔屋

東は山澗やまだに村、西は上大かみおお新田、南は平井ひらい村、北は与三よそう村で村境は入交じる。天正二年(一五七四)三月二七日の小倭右近後室寄進状(専称寺文書)によると、「あせ屋の内ゑさき百苅」が北条きたじよう専称せんしよう寺に寄進されている。近世は元和二年(一六一六)から同五年の藤井ふじい城主稲垣重綱領以外は柏崎町と同じ。正保国絵図に高二九〇石余、ほかに出口いでぐち村高六七石余がある。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では高五五六石一斗余。


畔屋村
あぜやむら

[現在地名]木造町筒木坂どうぎざか

屏風山びようぶさん砂丘の東部末端に位置する。北は筒木坂とうきさか村、南は田圃を隔てて亀ヶ岡かめがおか村、東は田光たつぴ沼に注ぐ山田やまだ川がある。

村名改称并新村創立調(八木橋文庫蔵)によれば、享保一一年(一七二六)坂本さかもと村が畔屋村と改称。菅江真澄の「外浜奇勝」には「坂本、畔屋といふ二村」とある。翌年木造新田に属し、木造通三五ヵ村の一つで村位は下とある(平山日記)。元文元年(一七三六)検地帳によれば、田畑屋敷合せて一四町一反六畝二六歩、村高六八・七〇七石とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android