番匠町(読み)ばんしようまち

日本歴史地名大系 「番匠町」の解説

番匠町
ばんしようまち

[現在地名]米沢市中央ちゆうおう四丁目

御清水おしみずおもて町の東、南北の道の両側に配置された中・上級家臣屋敷町。越後番匠えちごばんしよう町とも称した(「米府鹿子」ほか)町名は上杉氏が米沢入部のとき、越後の番匠(大工)が伴われて移住した地であったからという。のち武家町となった。享保一〇年(一七二五)の城下書上によれば町の長さ三町二二間・道幅五間・屋敷数二四。ほかに御清水町に出る長さ一町三〇間・道幅九尺の横町と、長さ一町五七間・道幅三間半・屋敷数四(うち牢屋一)の横町、当町の道と直角東西の道沿いに番匠町南之みなみの町があり、長さ一町一九間・道幅二間・屋敷数五であった。

番匠町
ばんしようまち

[現在地名]飯田市通り町一丁目

堀端の西、追手門のすぐ北に直線的に東西に走る町筋。ほん町一丁目の北側にあたる。天正一〇年(一五八二)飯田城主毛利秀頼の時につくられた町で、番匠すなわち大工が住んだところから町の名が起こったといわれる。

「飯田商業史」によれば、寛文元年(一六六一)大阪屋太郎左衛門が大坂から石臼を取り寄せ「飯田臼」を始めた。天和年中(一六八一―八四)には海老屋平助が伽羅油紅白粉を売り出し、元禄六年(一六九三)佐兵衛という商人が元結の製造を始めた。

番匠町
ばんじようまち

[現在地名]結城市結城 番匠町

長横ながよこ町の南に位置。御朱印ごしゆいん堀の内にあり、文禄年間(一五九二―九六)結城秀康によって建設された町とみてよい。おそらく番匠(大工)が集住していたのであろう。元禄四年(一六九一)の結城町町中間数・家数・屋敷町歩書上帳(赤荻和弥文書)によると地子免除地で、町中間数は四一間。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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