飯田城下(読み)いいだじようか

日本歴史地名大系 「飯田城下」の解説

飯田城下
いいだじようか

飯田城の西に広がる城下町

木曾山脈に源を発するまつ川と野底のそこ川が作る風越ふうえつ山麓の舌状台地、飯田台地(河岸段丘)に形成されている。東は天竜川を隔てて伊那山脈・赤石あかいし山脈に対し、西に木曾山脈及び風越山を負う。台地の一段下には、更に伊賀良いがらの台地が広がる。

飯田郷は中世は郡戸ごうど庄に属し、室町時代は信濃国守護小笠原氏の配下の飯田郷地頭坂西氏が支配した。坂西氏は飯田の北西に広がる風越山麓の上飯田に居館を置き、その後飯田台地の南の愛宕あたご飯坂いいざか城を築いた。やがて飯坂城は狭小になり、同台地上の東にある飯田城へ移転した。この頃の飯田城は、本丸(後の山伏丸)・二の丸(後の本丸)・三の丸(後の二の丸)・追手門(後の水の手門)などが主で、後世の城に比し小規模であった。

戦国時代末期には武田氏が伊那谷へ侵入し、伊那の諸氏は武田氏の支配下に置かれ、郡代として武田の家臣秋山信友が飯田城に居住した。天正三年(一五七五)武田氏は織田氏に大敗を喫し坂西氏も一族をわずかに残して滅んだ。同一〇年伊那谷は織田勢の侵攻に遭い、飯田城は落城した。織田信長毛利秀頼に伊那郡を与えた。毛利氏は飯田城に入ったが、同年の本能ほんのう寺の変で飯田を引き揚げ、その後に下条頼安が、同一五年には菅沼定利が入城した。同一八年再び毛利秀頼が一〇万石の領主として飯田城に入城、文禄二年(一五九三)に秀頼が亡くなり、婿の京極高知がその後を継いだ。慶長五年(一六〇〇)京極氏は丹後国宮津みやづ(現京都府宮津市)に移り、小笠原秀政が五万石で入城した。同一八年小笠原氏は松本へ移り、それからの数年間は飯田領は幕府領となり、飯田城は小笠原氏の預りとなった。元和三年(一六一七)脇坂安元が五万五千石の城主として入城、城と町の整備に力を入れたが、脇坂氏は寛文一二年(一六七二)播磨国竜野たつの(現兵庫県竜野市)に移され、堀氏が下野国烏山からすやま(現栃木県那須郡烏山町)から二万石の大名として入城した。以後明治維新まで飯田領には堀氏の支配が続いた。

〔城下の建設〕

毛利氏・京極氏の時代に、武士は全部城下に居住することになり、生活必需品を整える必要もあって、城下町の整備が進められた。まず天正一八年追手門の西に向かって直線的に道を作り、ほん町一丁目・二丁目ができた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報