日本大百科全書(ニッポニカ) 「疫病史」の意味・わかりやすい解説
疫病史
えきびょうし
人類の歴史が始まってこのかた、人間の生死を左右した最大の原因といえるのは疫病であり、戦争や天災による死因をはるかに上回る。したがって、人間の歴史に与えた疫病の役割はきわめて大きい。たとえば、古代のギリシアやローマを滅ぼした一因は疫病であり、中世末期ヨーロッパを襲ったペストは近代社会を開く陣痛となり、発疹(はっしん)チフスやコレラ、そして赤痢は、ときに近代の戦争の勝敗を左右し、結核や梅毒は近代思想に深い影を落としてきた。
疫病とは、普通かなり広い地域に集団的に発生・伝播(でんぱ)する感染症のことであるが、英語で疫病を意味するエピデミックepidemicはギリシア語のエピ・デーモスepi-dêmos(「民衆の上に」の意)から出たことばであり、日本では『古事記』『日本書紀』で病、疫疾、疫気などと書き、えやみ、えのやまい、ときのけなどと読ませ、鎌倉時代から江戸時代にかけては疫癘、時疫などをあて、はやりもの、はやりやまいなどとよばれていた。
[立川昭二]
文明と疫病
疫病は人類出現以前の化石動物にもみられる。寄生虫に冒された貝類や脳膜炎にかかった恐竜などがこの例である。疫病のなかには、動物の感染症からヒトに伝わり、それがヒトからヒトへと伝染する疫病となったものもある。そして文明時代に入って以後の人間の歴史にとりわけ深い爪痕(つめあと)を残した疫病といえば、急性伝染病としてはペスト、マラリア、痘瘡(とうそう)(天然痘)、麻疹(ましん)(はしか)、発疹チフス、腸チフス、赤痢、コレラ、インフルエンザがあり、慢性伝染病としてはハンセン病(癩(らい))、結核があり、さらに性病の梅毒があげられる。これら疫病の大部分は、もとはある限局された土地の地方病(風土病)であったが、文明の発展、文化の交流により、人が動き、物が動くに伴い、文明世界へと伝播し、世界的流行(パンデミー)となったものである。文明の発達が疫病を征服することは確かであるが、一面において、文明はつねに疫病と抱き合わせであり、文明の伝播経路は疫病の伝播経路とも重なり合う。
[立川昭二]
疫病の古代史
最古の疫病の記事は、『旧約聖書』やホメロスの『イリアス』などに断片的にみえるが、歴史事件としての疫病のまとまった記録としては、紀元前430年ギリシアのアテナイに流行した疫病を記述したトゥキディデスの『戦史』第2巻中の疫病記がある。これは「アテナイの疫病」とよばれ、死亡率は4分の1で、発疹チフス、痘瘡、麻疹または腸チフスのいずれかの融合形か、あるいは合併症と推定される。日本で史実として残る最古の疫病は、崇神(すじん)天皇5年の疫病で、『古事記』には「――病(えやみ)多(さは)に起りて、人民(おおみたから)尽きなむとす。」とあり、気候不順に伴う腸チフスなどの熱性伝染病と推定される。いずれにしろ疫病は人口が集中・増加し、社会が統一され、交流したところに発生・流行するものであった。
[立川昭二]
最初の疫病
人間が最初に認識した病気はおそらくハンセン病(癩(らい))であった。ハンセン病は古代エジプトのパピルスにも記録されているが、もともとは熱帯の風土病で、それが中世の十字軍の移動によって西欧に流入し、とくに貧民層に流行し、13世紀にその頂点に達した。中世西欧にハンセン病が蔓延(まんえん)した当時、医学が無力であったため、この病気を防ぐ唯一の手段は社会的規制によるほかはなく、キリスト教会はハンセン病患者(癩者)を社会的異端者とし、その追放の先頭にたった。ハンセン病患者は市域の外の収容所レプロサリウム(あるいはラザレット)に強制隔離された。このレプロサリウムはヨーロッパにおける病院運動の起源ともなり、また一部の修道会は救癩事業の活動に尽くした。ハンセン病は日本でも古くから流行し、『大宝律令(たいほうりつりょう)』でも最重度の篤疫(とくえき)として扱われ、光明(こうみょう)皇后とハンセン病患者との伝説(皇后が患者の膿(うみ)を吸って治療にあたったところ、その患者は阿閦仏(あしゅくぶつ)であったという言い伝え)は名高い。鎌倉時代にハンセン病患者の収容所がわが国最古の病院としてつくられ、江戸時代には「かったい」、天刑(てんけい)病といわれ、近代になってもハンセン病患者は生涯隔離の悲惨な境遇を強いられてきた。
[立川昭二]
文化交流と疫病
マラリアも熱帯の風土病で、病原体を媒介するカは沼沢地に発生しやすく、土地保全を怠るとマラリアが猛威を振るう。マラリアの伝播は、オリエントとの交流によってまず古代ギリシアに持ち込まれ、続いてイタリアに広がった。ギリシア・ローマ文明の衰退はマラリアに一因があるといわれ、「ローマの道」はマラリアの道でもあった。また一説には、マヤ文明はマラリアによって消滅したともいわれる。日本でも、マラリアは平安時代から記録され、「おこり」といわれ、流行を繰り返した。最近では、太平洋戦争の南方戦線で日本軍を苦しめたことはよく知られる。マラリアは民族の肉体的衰弱のみでなく、精神的な活力をも喪失させ、国力に及ぼす影響は大きい。
痘瘡の発源地は普通インドとされている。それが古代民族の移動・交流につれ、おそらくインドから仏教が各地に伝播していった経路とほぼ同じ道、つまりシルク・ロードをたどって、世界各地に伝播していった。中国には5世紀末に西域の天山南北路を経由し、まず西北地方に侵入し、またスキタイ交易路にのって西方へも流入していった。北中国に入った痘瘡は、仏教伝来と前後して朝鮮へ、そして朝鮮から日本へと伝播していった。『日本書紀』の欽明(きんめい)天皇13年(552)から用明(ようめい)天皇2年(587)にかけての疫病の記録は、痘瘡あるいは麻疹とされ、古代豪族の権力闘争と外来宗教導入の激動期にあって、少なからぬ影響を与えた。痘瘡、麻疹はこうして日本の風土病的な疫病となり、以後日本人を長く苦しめぬくのである。
[立川昭二]
中世の疫病
痘瘡がひとわたり地上の各地に居座ったあと、世界の疫病史にその名をとどめた主役といえば、いうまでもなくペストである。本来ネズミの病気であるペストの歴史は、ネズミの生態の歴史と密接な関係がある。ペストのヨーロッパへの侵入経路をみると、クマネズミのそれと経路も年代も一致する。インドからアジア南部にかけて生息していたクマネズミは、気候変化による飢饉(ききん)あるいは食物連鎖の変動により北上を始め、さらに蒙古(もうこ)の西進のあとを追って13世紀末にヨーロッパに侵入した。ペストは当時の東西交易路と地中海貿易路をそのままたどっているわけであり、シルク・ロードはペスト・ロードでもあった。こうして1348年には黒死病(ブラック・デス)の惨劇となり、ヨーロッパ全土でおよそ3人に1人の死者を算した。この大量死は、中世的権威が失墜し、中世的社会が崩壊する大きな引き金となり、近代社会誕生を促す陣痛となった。一方、東アジアはこのときのペスト禍は免れたが、もしペストが日本に侵入していたら、歴史はおそらくまったく異なった様相を呈したに違いない。
[立川昭二]
大航海時代の疫病
ペスト禍を免れた日本も、免れることができなかったのが、性病の王者梅毒である。梅毒の起源については新大陸説と旧大陸説があるが、ヨーロッパで梅毒が流行するのは15世紀末のことで、コロンブスの帰還した1493年にバルセロナでまず発生したという記録があり、その意味では梅毒はコロンブスの航海土産といえる。翌94年フランスのシャルル8世によるイタリア遠征の際、ナポリでこれが暴発し、フランス人はナポリ病、イタリア人はフランス病と言い合った。時あたかもルネサンスの動乱期で、売春の盛行につれ、梅毒はヨーロッパ全土にまたたくまに広がった。さらに大航海時代の波に乗り、梅毒は海を越えて東方にも急激な速度で波及していった。まずバスコ・ダ・ガマの隊員によって1498年ごろインドに運ばれ、続いてマレー半島を経由して16世紀初め中国の広東(カントン)に達し、1510年ごろには中国内陸部まで波及した。日本には、1512年(永正9)に伝来したといわれ、唐瘡(とうがさ)あるいは琉球瘡(りゅうきゅうがさ)とよばれた。この梅毒スピロヘータを運んだのは日本人を主体とする倭寇(わこう)であり、実は鉄砲伝来の年より30年も早い。時代は戦国乱世の動乱期で、梅毒はたちまち日本人を激しく冒していき、江戸時代に深く淫侵(いんしん)した梅毒は、公娼(こうしょう)制度と相まって近代日本においても大きな社会問題となった。
[立川昭二]
戦争と疫病
戦争には疫病が付き物であるが、名高い戦史にはすべてといってもいいほど疫病が主役として登場してきている。とくに近世ヨーロッパの戦場では、発疹チフスがつねにはでな立回りを演じ、たとえばナポレオンのロシア遠征では赤痢などの脇役(わきやく)とともに、発疹チフスはフランス軍将兵のおよそ3分の2を奪い、ナポレオン衰退の大きな原因となった。またナイチンゲールが活躍したクリミア戦争、さらに第一次世界大戦でも猛威を振るい、ロシア革命もしばらくは発疹チフスの手中にゆだねられ、レーニンをして「社会主義が勝つか、シラミが勝つか」と叫ばせた。第二次世界大戦でもマラリアとともに発疹チフスが参戦国戦病死者の大きな死因となったことは記憶に新しい。
[立川昭二]
産業革命と疫病
結核はかなり古くから世界的に広がっており、古代の医書にも記され、近世ヨーロッパでは上流社会の間にまず蔓延(まんえん)していた。しかし結核が「白いペスト」とよばれ、大きな社会問題となるのは、19世紀の西欧社会においてであり、産業革命の進行と軌を一にしている。産業革命とともに、大量の人口が農村から都市へ集中し、過酷な労働条件と劣悪な生活条件のなかに投げ出された工場労働者とその家族は、ほかの疾病とともに、とりわけ結核菌の猛威にさらされた。したがって、産業革命誕生の地イギリスが最初の洗礼を受け、労働階級に爆発的に広がった結核は、その後あらゆる階層にその魔手を伸ばしていった。一方、結核の悲劇から最初に回復したのもイギリスであり、いかなる国においても結核が急増するのは、社会経済が農業型から工業型に移行する転換期であり、そのピークが過ぎ、繁栄が広まると、その死亡率は低下する。明治・大正の産業革命期の日本も結核に浸潤され、今日、ようやく産業革命の段階に入った開発途上国では、いずれも結核の猛威を受けている。その意味で、結核は疫病の歴史的法則性を立証するものといえる。
コレラは国際伝染病の花形であるが、けっして古顔ではない。もともとインドのガンジス川下流の風土病であったが、19世紀初めの近代文明の進歩、とりわけ交通の活発化とともに、国際交流の波に乗って文明諸国に広がった。つまりコレラの世界的流行(パンデミー)は、いわば世界の「近代化」の一現象であり、とりわけイギリスのインド経営がその引き金となった。1817年、イギリスがインド支配に成果をあげた第三次マラータ戦争の年、コレラはガンジス川下流から躍り出た。ついで1826年の第二次世界的流行のときは地球上の全地域に広がった。日本には幕末の1858年(安政5)に長崎から侵入したコレラが全国的に流行し、激甚な被害を与え、江戸だけでも死者10万余あるいは26万余ともいわれた。明治時代となった日本でもコレラが大流行し、コレラ防疫(強制隔離、死者の処置など)に対する民衆の反感が「コレラ一揆(いっき)」のような社会的混乱を引き起こした。
[立川昭二]
現代の疫病
コレラなどに対して細菌学が勝利の行進を続けているさなか、それに冷水を浴びせたのは、第一次世界大戦末期に発生したインフルエンザの世界的流行である。インフルエンザはギリシア時代から知られ、日本では江戸時代後期に侵入して流行を繰り返していたが、「スペインかぜ」として知られる1918~19年の大流行は、かつての黒死病を想起させる大きな災厄をもたらした。全世界で2500万の死者を算したといわれ、日本でも患者2300万、死者38万余という惨禍となった。その後1957~58年の「アジアかぜ」も地球上の全域を瞬時的に襲った。現代社会の密集した集団生活、迅速な輸送手段はインフルエンザの世界同時発生という爆発的な性格をつくり、インフルエンザ・ウイルスの複雑さとともに、インフルエンザは人類最後の疫病として、今日なお、終わりなき戦いを強いられている。
このように疫病の歴史を振り返ると、たとえばヨーロッパを例にとると、13世紀のハンセン病(癩(らい))、14世紀のペスト、16世紀の梅毒、17~18世紀の痘瘡、発疹チフス、19世紀の結核、コレラ、20世紀のインフルエンザというように、それぞれの時代の社会なり文明なりは、それ特有の疫病をもっており、その疫病はその文明の変革、社会の改革によって消滅していくが、次の時代には別の疫病が出現してくることがわかる。また疫病は戦争、天災、貧困と深い相関関係をもっているが、中世末期とペスト、ルネサンスと梅毒、産業革命と結核、近代化とコレラのように、時代の激動期、社会の変革期に新しい疫病が出現・流行するという歴史的因果関係をももっている。
[立川昭二]
『立川昭二著『病気の社会史』(1971・NHKブックス)』▽『立川昭二著『日本人の病歴』(中公新書)』