白塚村(読み)しらつかむら

日本歴史地名大系 「白塚村」の解説

白塚村
しらつかむら

[現在地名]津市白塚町

町屋まちや村の北、中山なかやま村の東方にあり、伊勢湾に沿った浜堤上にある集落で、沿岸漁業と、後背湿地の耕作を生業とした。村名については、地形の示す白砂の浜である白須から白須賀・白塚となったと「河芸郡史」は推定している。室町時代の歌人尭孝は永享五年(一四三三)の将軍足利義教の伊勢参宮に陪従し、当地で「霞たつみとりの末もひとつにて明行雲のしらつかの松」と詠んでいる(伊勢紀行)。応安元年(一三六八)の栗真庄内熊野田注文(熊野夫須美神社文書)は、

<資料は省略されています>

とあり、窪田くぼた(→窪田村窪田庄に五段の作職をもったとみられる当地の兵衛の存在を伝える。また集落北方の田地に小字名「くもんきゅう」があり、「九門久」の字があてられているが、下級荘官「公文」の給田を示す「公文給」跡と考えられる。これらから中世、当地は荘園支配を受けていたのであろうが、関係史料を徴しえない。

文明年間(一四六九―八七)伊勢湾の海上で、通行の船舶より「新警固役」と称する新設の通行税を取立てる者が現れるが、文明一二年の「内宮引付」(神宮文庫蔵)によると、「泊大里分」の代官と称して横行する「白塚賀藤」なる者の存在が知られる。泊大里は現鳥羽市鳥羽かと思われるが、また「白塚賀藤并津之稲垣方、於両所、致新儀」(同年一〇月一二日付氏経書状)と記されているから、白塚や津あたりで行っていたのではないかとも推察される。


白塚村
しらつかむら

[現在地名]市原市白塚

青柳あおやぎ村の南に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二〇二石。正保国絵図でも同高で幕末までほぼ同様。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数四一、旗本林・三島・曾根・筧・揖斐・上田六氏の相給。林分は同氏が文政八年(一八二五)大名となったことに伴い貝淵藩(のち請西藩)領となる。

天保一四年(一八四三)の村明細帳(鮎川家文書)によれば筧領五七石余のほか揖斐・上田・曾根・三島各氏および貝淵藩領ともに二八石余、年貢米は青柳今津いまづ両浦まで馬付で運び、同浦から運賃は米一〇〇俵につき米三俵で運んだ。


白塚村
しらつかむら

[現在地名]鉾田町白塚

東は鹿島灘に臨み、北は柏熊かしわくま村。室町末―戦国期に烟田氏の勢力下に置かれ、享保三年(一七一八)一一月の烟田幹当所領十六箇村覚書(烟田文書)に「同浜方、堺堀・白塚・大竹(中略)烟田又太郎通幹迄先祖代々相伝之領知也」と記される。また烟田旧記(続常陸遺文)天正一八年(一五九〇)四月一一日に「白塚薬師大い禰屋敷御うつり候、対馬まへに御立候、すなふき上屋敷皆うまり候て、二百文地かへ申候」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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