皇道派・統制派(読み)こうどうはとうせいは

日本大百科全書(ニッポニカ) 「皇道派・統制派」の意味・わかりやすい解説

皇道派・統制派
こうどうはとうせいは

昭和初期に形成され互いに対立、抗争した陸軍内部の派閥皇道派はかつての反長州閥の流れをくみ、大正末から昭和初期に至る宇垣一成(うがきかずしげ)閥に対抗して形成された。荒木貞夫(さだお)や真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)をリーダーとし、皇軍や皇道ということばを愛用したことからこの名がある。1931年(昭和6)末、荒木陸相に就任するや、三月事件十月事件の関係者を中央部から追い出し、宇垣系の将軍たちを予備役に編入したり閑職につけるとともに、そのあとを自派で固めた。こうして「皇道派時代」が始まる。彼らは皇道主義的イデオロギーによって青年将校たちの人気を集め、青年将校たちは荒木・真崎体制の下で横断的結合によって昭和維新を実現するという運動を展開した。こうした風潮を憂慮した幕僚将校たちは、一方では青年将校運動を封殺するとともに、軍中央の一元的統制の下に国家改造を図る計画を進めた。このグループがいわゆる統制派である。34年1月荒木が辞任し後任陸相に林銑十郎(せんじゅうろう)が就任したが、林陸相の下で軍務局長永田鉄山(てつざん)を中心とする統制派が皇道派の一掃を図った。同年11月の十一月事件士官学校事件)や翌35年7月の真崎教育総監罷免、8月の相沢(あいざわ)事件などを通じて両派の抗争は激化し、36年の二・二六事件において頂点に達した。事件後は、寺内寿一(てらうちひさいち)陸相、梅津美治郎(よしじろう)次官らのいわゆる新統制派が粛軍人事を行って派閥解消に努めるとともに、軍制改革を行って軍の一元的統制の回復を図った。

[安部博純]

『秦郁彦著『軍ファシズム運動史』(1962・河出書房新社)』『今西英造著『昭和陸軍派閥抗争史』(1975・伝統と現代社)』『近代日本研究会編『昭和期の軍部』(1979・山川出版社)』

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